千曲万来余話その693「モーツァルト2番ホルン協奏曲K417、新婚し立てで無類の名人芸披露・・・」。

 世の中には精神安定剤など鎮めたり高揚させたり、あまたクスリがあるけれど、LPレコード再生に超えるものなし。モーツァルトの音楽を聴き、感興が沸き起こる経験を共有する御仁は必ずや、愉快愉快と相好を崩される事請け合いであろう。
 ホルン協奏曲変ホ長調K417、作曲は1783年5月音楽の都ウィーン生活の開始、前の年にはコンスタンツェとの結婚で人生に勢いの乗ったモーツァルト27歳は正に溌剌とした作曲が佳境に入ったといえる。
 デニス・ブレイン〈春秋社1998年刊「奇跡のホルン」Sペティット著 山田淳訳参照〉1921-57は彼の父オーブリー、2人の伯父アーサーとアルフレッドそして祖父A・E・ブレインは皆ホルン演奏に秀でた存在、音楽的才能が代々受け継がれうることの驚異的な証明となっている。
 デニスはその上で天才の域に達していて、パイプオルガン演奏もレコードに記録している。ホルンという楽器を語る上で、一番、音を外す確率の高い楽器という常識を確認しなければならない。演奏会で音を外すも「ホルンだから・・・」という慰めの感覚は禁物、それを克服するホルン奏者こそ努力の音楽家、天才、決しておごり高ぶらない人間性豊かなプレーヤーというお世辞とは無縁の評価が与えられる。何より音楽とは、聴く人を幸せに導く時間の芸術なのである。
 デニスは1944年初めてロイヤル・アカデミーで勉強していたイヴォンヌ・コールズという若く小柄でチャーミングなピアニストに出会った。恥ずかしがり屋でも才能が有りブラームス2番ピアノ協奏曲を弾いたこともあった彼女とデニス・マシューズを介して出会い、互いに強く惹かれあうようになった。彼が英国空軍オーケストラの米国公演から戻るとすぐ婚約し、1945年9/8にハンプシャーのピーターズフィールド・パリッシユチャーチで挙式24歳のこと、フルート奏者ガレス・モリスが新郎付添人として務めている。軍務に服役していながらも7年間籍を置き1946年10月頃除隊が認められている。フィルハーモニア・オーケストラ・オブ・ロンドンとロイヤル・フィルハーモニックと二刀流の演奏活動はスタートされていた。
 フィルハーモニアとの演奏会でバルビローリ指揮から急遽代役にワルター・ジュスキントが務めホルン協奏曲3番が演奏された。その3月27日アビーロードスタジオにてコロンビア録音2番変ホ長調協奏曲K417が企画された。会社は彼に一括報酬約10ポンドと、レコード売り上げからの印税のどちらを選ぶか尋ねている。彼の選択は、はるかに大きな額の印税を逃すものであった。ワルター・ジュスキント1918年プラハ生れ-80年没は1976年1月27日札幌交響楽団定期公演にてブラームスの3番交響曲を取り上げていた。当時首席ホルン奏者は窪田克己というデニスの薫陶を受けている千葉馨の愛弟子。
 デニス・ブレインはホルンでピストン・バルブのフランス製ラウーを愛奏していた。ハイトーンに特色が有り抜けるような音色は、一聴して全ての楽団員を惹きつける魅力あふれるものである。レオポルド・ストコフスキーをして44年末米国公演中のデニスに戦争が終ったらフィラデルフィアの第1ホルンを吹きに来ないか?と口説いたそうである。1951年フィルハーモニア管弦楽団ストコフスキー指揮シエラザードの録音が貴重なマリアージュとして残された。ただし楽器メーカーはこの前後にドイツ、マインツの製品アレキサンダーにスイッチされている。
 1953年カラヤン指揮で録音モーツァルトのホルン協奏曲4曲は、明らかにアレキの音色でありクレジットこそないものの、可能性は高い。ジュスキント指揮の第2番第3楽章ロンドではデニス奏する旋律線をヴァイオリン奏者達がつけている雰囲気は微笑ましい。第2楽章アンダンテは、そのテンポ感は抜群、安心感を与えてくれる。第1楽章ではラウーの特色を遺憾なく発揮して天馬空を行く、まさにアレグロ・マエストーソ、実に堂々として盤石の演奏からその音楽性は人々をして幸福感に満たすこと請け合いと云えるかもしれない・・・