千曲万来余話その692「ニ短調協奏曲ハスキル演奏という珠玉のK466・・・」

 天頂に、ふたご座のカストルとボルックスを認めた時そこに赤星の火星が近いけれど、グスタフ・ホルストは戦争の神と命名したタイトル、組曲惑星であったが今、戦争状態がどのような展開を見せるか今年の一大事である。
 暁の空に満月を過ぎて下弦の月があるのを有明の月、とすることは太陰暦での月後半の事である。この言葉の使用は平安から語り継がれる智慧であり、これを歴史認識とするのを深い知恵といえることではないだろうか?ひとつの言葉に歴史をたどることは、遺伝子の世界をさかのぼる喜びが有る。
 デモーニッシュというドイツ語で、シュトルム ウント ドランク疾風怒濤という言葉とともに、かつて小塩節(たかし)先生の、モーツァルトのこの音楽によりよく判るという発信を記憶している。ケッヘル番号466開始する音楽こそ、あああと来るゾクゾク感は初めての人にとっても感興を湧き立たせるモーツァルトの天才性なのではないだろうか?この感覚が一番ピンとくる、ベストワンのレコードが1954年1/11ベルリン(ノイケルン)で記録されている。フェレンツ・フリッチャイ指揮ベルリンRIAS交響楽団でピアニストはクララ・ハスキルの録音。その時あとに続く演奏曲目は春の祭典だから、演奏者たちの感覚はおそらく、ジェットコースターで頂上に向かう辺り、嵐の前の静けさが支配していたのかもしれない。もちろん、そのような情報発信は無用の長物であることは百も承知だがしかし、その情報を自覚して初めて指揮者フリッチャイの偉大と、その業績が再認識されることは請け合いである。
 1951年5月指揮者ラファエル・クーベリクと協演したハスキルは1950年11月に知らされた敗血症によるディヌ・リパッティの逝去、衝撃的な喪失感を乗り越えていたことになる。翌年の戦後初めてになるドイツ国内演奏で、指揮者フェレンツ・フリッチャイとの出会いは1953年1/18、19ベルリン・ティタニア・パラストでの演奏会、モーツァルト曲ピアノ協奏曲19番ヘ長調K459。クララは彼が最高の指揮者で一緒に弾いているのが楽しくなると絶賛(畠山陸雄 著作、神が地上に遣わしたピアノの使徒)し、この時期ヴヴェイでチャプリンが後に生涯で出会った三人の天才、アインシュタイン教授、ウィンストン・チャーチル卿そしてクララ・ハスキルと述懐していたそうだ。
 そのクララであるが、フリッチャイは晩年に、彼女を思いやる気持ちと励ましが彼女には必要であり、芸術の上でも人間的にもバランスのとれた気持ちが演奏でも他の人との一緒の仕事でも必要としていた。それは配慮であったが、難しい事ではなかった。彼女の謙虚な気持ちは、音楽上のどんな些細なヒントでも感謝をもって受け入れていたことの表れであった。彼女と協演したヨーロッパの一流オーケストラの団員達も心からクララを愛し、彼女との協演を喜んでいた。何故なら、彼女のどの演奏でも、それは一つの事件であり、大きな発見であったから、全ての面で彼女は偉大なピアニストであり、末永く模範となるだろう。まるで魔法にかかったように突然ピアノで魅力的な歌を花咲かせてくれたが、それは音楽家にはあまりない奇蹟を起こしたと述懐して、協演しているときでもクララの演奏を聴くときでも限りない喜びを享受していたとも語っている。
 死について彼女と語り合ったフリッチャイは、「演奏できなくなる前に神様が私を連れ去るでしょう」と会話したことを振り返っている。1954年8/14に二人はルツェルン音楽祭に参加、ベートーヴェンのピアノ協奏曲2番を協演、54年音楽祭での思い出に、深い愛を込めて クララに、と彼女のポケット版楽譜に書き記していたとある。
 この録音の圧巻はロマンツェ楽章の静寂感、彼女ベストパーフォーマンスの唯一無二ともいうべき音楽に書き記すべき言葉が有り得ないことこそ、無上の音楽であることの証かもしれない・・・