千曲万来余話その690「ブラームス第3交響曲カンテルリ指揮で作曲家と恋心・・・」
クララ・シューマンは今から30年余り前ではドイツマルク紙幣の肖像画でもあり、ロベルト・シューマン1810~1856の妻としてピアニスト、作曲も残している才媛である。ロベルトの没年はブラームス23歳時であり2年後ピアノ協奏曲第1番作品15を創作、冒頭開始部分は弦楽とティンパニ―トレモロで悲壮感充満の音楽、独奏者はオクターブのトリルという壮絶な手法が必要とされる。有名ではあるのだが、ブラームスは終生、クララ・シューマンに添い遂げていた節がある。彼はベートーヴェンの如く婚姻関係の女性とは無縁であったのだが、第3交響曲ヘ長調作品90を発表した1883年頃のバイオグラフィーを調べると、歌手ヘルミーネ・シュピース、ブラームス氏最後の恋心に火をともした女性と言われている。ブラームスはお好き?というフランス映画のBGMとして第3楽章の主題が展開されるとか聞いたことがある。あの旋律は、恋い焦がれる青年なら、ははーんと覚えのある心境で、女性にはさっぱり、の音楽ではないだろうか?
グィド・カンテルリ1920.4/27ノヴァラ生まれ1956.11/26パリ、オルリー空港離陸直後の飛行機事故による客死、享年わずか36歳の前途有望な指揮者の亡くなる前の年1955.8/16にロンドンでフィルハーモニア管弦楽団を指揮してブラームスのこの曲ステレオ録音を残している。トスカニーニをしてカンテルリは、私の様に指揮する若者と称賛してNBC交響楽団などに招聘、彼の悲劇的な最期は知らされることなく、1957.1/7に死去していた。
指揮者に課される最初の試練は、オーケストラに対峙するヴァイオリン配置であり、トスカニーニは映像で確かめられるごとく頑なにヴァイオリン両翼配置であった。それは、モノラル録音時代であり、ストコフスキーとかビーチャム卿などそれをスルーして第一と第二Vnを束ねる第二次大戦後ステレオ録音では主流となった配置である。どういうことかというと、アンサンブル合奏のハードルは格段に下がり合わせやすい、指揮者不在でも、アンサンブルは成立する。ストコフスキーは1930年代の映像でも指揮棒を持たない姿が確認できて、10本の指でニュアンスを伝える魔術師とまで称賛されたものである。この姿は、現代では多数派を形成する指揮棒を使わない指揮者の原型だろう。ところが、カンテルリは長いタクトを使用するという、いわば楽員にとり見やすい指揮者の理想である。オーケストラの立ち上がりの音はエッジが効いていて緊張感のある音楽に寄与している。
交響曲作品90の開始直後にFa―Do、という下降型のヴァイオリン音型は第1と第2でオクターブ間隔があり、これを束ねるのがステレオ録音の多数派。ところが、第2Vnを上手に配置するのがダブルウイングの古典配置である。だからこれは作曲家の前提としての音楽でありステレオ時代に入って打ち毀された音楽といえる。クレンペラーのみならず、エードリアン・ボールト、カール・シューリヒトなどもステレオ録音で古典配置を採用、カンテルリの活躍は、未来を志向する灯であったのだが、残念に結果になっている。ところがLPレコードの世界では、ミュンへン・フィル指揮したルドルフ・ケンペ、バイエルン放送交響楽団を指揮したラファエル・クーベリクなど立派な記録を達成している。
第3楽章ポコ アレグレット少しゆったりめ快速で ではホルンの独奏旋律がピークであり、カンテルリの時とクレンペラー56年10月録音指揮ではデニス・ブレインが朗々と歌いあげている。前者はアレキサンダー製の重厚感あふれる音色、後者はパックスマンという華やかで軽やかな音色を披露している。57年の9/1早朝カークラッシュによりデニスは不帰の客となり、同乗の楽器は没後に復元されたパックスマンであった。
この音楽はブラームス一流の嘆き節であり49歳の彼が当時16歳の娘ヘルミーネに捧げた思いのたけの音楽ではなかったか・・・