千曲万来余話その680「ドビュッスィ「海」、指揮者の至芸「明晰性」・・・」

 指揮者のイメージとして、楽員を自由に操るものと、厳格な指示によるコントロールなどなど様々であるのだが、レコードを再生してこれは凄いと思わされるLPに出会えるのは、喜びである。そんな経験は、そうあることではないのだが、モノラル録音のレコードを上手く再生して経験することが有る。デジレミール・アンゲルブレシュト1880.9/17パリ生まれ~1965.2/14同地没は1950年代おわり頃より指揮活動を停止、録音はフランス物のほか、LP録音の数は限られている。それにしても東芝EMI株式会社、アンゲルブレシュトの芸術、ドビュッスィの作品たちはどれも秀抜な録音であり、その指揮芸術には大いに考えさせられるものがある。
 作曲家は、音楽に没頭して作曲し、指揮者は楽員に対して音楽に没頭する。そこは大きな違いがあり、ベートーヴェンが自作を指揮する時代と、現代とでは指揮者の有り様は大いに異なる。ドビュッスィ1862年生まれは1913年、指揮者アンゲルブレシュト33歳に対して献呈の辞を贈っていてその活動に敬意を表明、作曲者の立場から指揮者の功績を、公式に称賛している。例えば、マーラーがブルーノ・ワルターに対して、リヒャルト・シュトラウスがカール・ベームに対して高い評価を与える構図に似ているかもしれない。交響詩、交響的素描3枚のスケッチ「海」は1905年10月15日ラムルー管弦楽団により初演、海の夜明けより真昼まで、波の戯れ、風と海との対話。
 ふつう、ステレオ録音は広がりが豊かでスケールが大きいとか評される反面、モノラル録音は音が貧弱で乏しい音であると固定観念化されている。盤友人は45年のオーディオライフにあり、黒ツノというモノラルカートリジを使用、ガラード301というハンマートーン仕上げに309というトーンアームを使用して、メインアンプは3極管AD1シングルタイプ2台というシステム(ブログWESTHILLS SAPPOROで紹介)、つまり1950年代に対応することにより、モノラル録音再生で当時の演奏を楽しんでいる。すなわち、歴史をさかのぼるために真空管の装置を使用するという先祖がえりを実践している。その結果、アンゲルブレシュトの至芸は一言、明晰さにある。どういうことかというと、オーケストラ楽員をコントロールするのではなくて、彼らの自発性、即興性の十二分な発露としての演奏藝術の録音ということになる。指揮者が命令することではなくて、楽員が耳をそばだてて、楽譜の時間的秩序、絵画的な音色の音楽化を実現した時間の記録再生に尽きる。たとえばハープの演奏にティンパニーは音楽的秩序を実現、クラリネットの旋律を導いたり、チェレスタによる5音音階を楽員が耳をそば立てたり、どんなにフルオーケストラの音量が大きくても、バランスはきっちり、管、弦、打楽器の芳醇な音響を実現したりする、その音楽の中心が指揮者の存在に対応しているというまでである。
 人間関係において、年齢の上下関係、あるいは音楽演奏技術の巧拙上下関係、あるいは等々、上下関係が支配する世の中にあって、「自由」な世界は音楽芸術にとって、必須の時間である。それは、たとえば作曲家が指揮者にお墨付きを与えた時、そのことによるのではなく、指揮者が楽員に対して実現する時間こそ、その指揮者の至芸なのだろう。
 アンゲルブレシュトの芸術は、オーディオを通して知ることのできる、音楽の歓びを与えてくれる数少ない貴重な音盤である。よく人は、音楽は生が最高だよねという会話に終着するのだが、とんでもない、オーディオライフは未知の体験をもたらしてくれる数少ない趣味の世界であり、奥深さを体験する悦びこそ、人生を豊かに彩るそれこそ札幌では満開の時期、辛夷、ソメイヨシノ、エゾヤマザクラのこの季節に相応しい。「自由」こそ素敵・・・・

 

シャンゼリゼ劇場管弦楽団

 

1955年録音