千曲万来余話その679「B氏チェロソナタ第3番イ長調、だから今カザルス・・・」
人間味ゆたかな偉人のみが、つねに、そしてすべての人々のために、人間性に対する信頼を救うのである、ロマン・ロラン。わたしにとって、芸術と生活とは終生分かつことのできないものである、パブロ・カザルス。彼を聴いたことがないものは、弦楽器をどうして鳴らすことができるかを知らないのである、ウィルヘルム・フルトヴェングラー。彼は20世紀最大の、というより音楽の歴史上最高のチェロ奏者である、小石忠男・・・などなどカザルスを知らないことは、音楽のなんたるか、オーディオの目的に無縁の好事家であり、彼を再生する悦びこそ音楽、真の人生になると言って差し支えないことだろう。オーディオの目的が綺麗な音をのみ求めることは、あたかも、地球を一周して世界を知るという誤解に他ならない。地平学的に地球の上を歩くことのみならず、その歴史に迫るこそ、真実に迫る人生の歓びといえる。スペインのカタロニア地方、ヴェンドレルの地に訪問することは、真にカザルスの芸術に近づく第一歩、そこから彼の芸術は不滅の輝きが再生される。別な言い方をすると、その方向から地球を俯瞰することで、彼の芸術を体験することこそ吾らオーディオ人生の方向といえる。喜びと悲しみ、この相反する感情は対立することではなく「シーソー」の如く体験する、二律背反アンヴィヴァレンツのものといえる。
1876.12/29生誕~1973.10/22プエルトリコ・サンファン死去。彼は36年スペイン内乱の影響から国外活動を余儀なくされ、独裁政権と国交を持つ国ではチェロ演奏会を拒否、オーケストラの指揮活動を展開していた。フランスとスペインの国境に近いプラドに居を構え、米国ヴァイオリニスト、アレクサンダー・シュナイダーの提案を受け入れて、プラド1950年6月バッハ没後200年記念音楽祭を開催。アメリカの優秀な音楽家が集い、広くカザルス芸術が世界に紹介される運びとなった。1914年1次世界大戦勃発はヨーロッパでの音楽活動を停止させることになり、アメリカが演奏活動の中心となる。1915~19年に小品26曲を録音、電気録音以前のアクースティク吹き込み録音である。さらに20~25年に米コロンビアに21曲録音されている。20年バルセロナに帰国、管弦楽団を組織、31年スペイン共和制に移行、新しい共和国の芸術的なシンボルしかし36年には内乱によりプラドに移住したものである。この年にバッハの独奏チェロのための組曲全6曲をロンドンで開始、39年には第1、6、4、5番とパリ録音で完成、レコード化を実現している。
1930.3/6~7にオットー・シュルホフとベートーヴェンの3番イ長調作品69を録音。第3番というのは英雄的な番号でもあり、雄渾な音楽である。なにより、ベートーヴェンが1808年12月、2曲の交響曲作品67と68の音楽を発表と並び称されるべき重要な音楽かもしれない。①9,29②3,09③7,14という録音タイミングで、第1楽章アレグロ・マ・ノンタント快速で、充分すぎることなく、第2楽章スケルツォ諧謔的に充分快速で、第3楽章アダージォ-カンタービレ幅広く豊かにゆるやかで、歌うようにーアレグロ・ヴィヴァーチェ快速で快活に。ここで開始は快速で、さらに第2楽章はスケルツォであり、これは従来の緩徐な音楽とは異なり、第3楽章にその音楽は披露される。ここでも、B氏は定型の音楽をきらい、フィナーレは緩徐で開始、そして快活にお仕舞いというB氏が親友イグナーツ・フォン・グライヒェンシュタイン男爵に献呈したいきさつが伺われる。1809年にはウィーンのルドルフ大公らが年金保障契約を成立させた成り行きとパラレルな時代背景である。
カザルスの演奏は、フレーズの起承転結が明確に把握されていて説得力が有り、歌心に溢れた芳醇な薫りする演奏の高みに立っている…