千曲万来余話その677「ピアノ5重奏曲、「鱒」という室内楽の愉しみ・・・」
2/21キタラ小ホールでのミクロシュ・ペレーニ演奏会に足を運んだ。チェリストのペレーニさんは、この時期にリスト音楽院から派遣された札幌での教授活動として長い歴史を持っている。ブダペストからの音楽使節、さながら伝道師というべき音楽家である。プログラム最初にバッハの無伴奏組曲第2番ニ短調という作品、この短調の作品は6組曲の中でもとりわけ「祈り」の側面をみせていて実際ペレーニさんの音楽は、素朴、質実剛健、神聖な雰囲気の穏やかな表情であった。3曲目まで進み大バッハならではのポリフォニー音楽、旋律メロディーを複数同時進行で聴かせるという作曲法の粋を演奏する大きな構築性を遺憾なく発揮していて、その説得力、確かな技術に文字通り手腕を見せたというべきだった。このバッハ曲の次にダラピッコラ作曲の無伴奏曲、いかにも、楽器の歴史が200年の時空を飛び越えて、しかもなお、ステージ上に舞台一体の楽器の響きが再生されてバロック時代から一気にモダニズムの音楽へと飛躍していた。
チェロの無伴奏曲に耳を傾けていると舞台の下手に低音域、上手には高音域という展開が理解される。これは大事な感覚であってチェロの右側、チェリストの左腕側にはグランドピアノが配置されていて、舞台の奥には低音域、手前に従い高音域という弦の並びを自覚する。翻りピアノ5重奏曲では、舞台下手にコントラバス、上手配置としてグランドピアノ、舞台中央のチェロ、そしてチェリストの右手側前にヴァイオリン、左手側前にアルトという盤友人の見立てである。
「鱒」というのはカワマスの一種で、北海道ではヒメマス幼魚をチップと呼んでいる。シューベルトの時代、ああ釣り師につり上げられる!と危ぶまれた鱒は、ヒメマスかニジマスか?体つきからして虹の模様は華やかである。サーモンという鮭は赤身の魚だけれど、フュッセンに旅行した時に、ボイルして食したフォレレは白身魚だった。
この5重奏曲、ピアノも主題を演奏する第4楽章で、重要なパートはコントラバス。だから、コントラバスをグランドピアノの前というより、ステージ後列の上手ピアノと対称コントラストで舞台下手に配置した方が、音楽的に聴きやすいといえる。
LPレコード収集をしていてコントラバス奏者ゲオルク・マクシミリアン・ヘルトナーゲル1927.3/12~2020.5/1の名盤を多数所有していることに気がつく。ピアニストではDG盤クリストフ・エッシェンバッハ、オイロディスク盤カール・エンゲル、インターコード盤モニカ・レオンハルト、PH盤メナヘム・プレスラウ、EMI盤スヴィヤトスラフ・リヒテル、EMI盤エリザべト・レオンスカヤ。このうちK・エンゲル、M・レオンハルト、E・レオンスカヤのピアノの音色からベーゼンドルファーを想像させる。このグランドピアノは低音域への倍音が豊かで重心が低い印象が有る。たとえばスタインウエイらしい、プレスラウのフィリップス盤は、ボーザールトリオに焦点が当たり、どちらかというとコントラバスは控え目、リヒテルのボロディン四重奏団とは、いかにもリヒテルが合奏の中心にあり緊張感の高いライヴ録音。レオンスカヤのアルバンベルク四重奏団とのアンサンブルは、ギュンター・ピヒラーVnの主導権が明快であり、旋律が楽器の掛け合いを明確にしていて、爽やかな仕上がりである。ヘルトナーゲルに求められているのは安定感で、出過ぎたりまたその逆もなくて、役割を心得た至芸のコントラバスを聞かせている。
低音楽器の歌謡性は、シューベルトの当時、グランドピアノではなく、フォルテピアノという時代の楽器に対応する演奏が実に楽しさを物語る。「オーディオの歓び」のためにシューベルトは作曲したというか、「オーディオは音楽のためにある」・・・