千曲万来余話その665「変容メタモルフォーゼン、追悼・・・ 」
十円硬貨で平等院鳳凰堂は裏面というのは、うろ覚えのことであり、指摘されるとネット情報で造幣局が製造年表記側を裏側とするのは、法律化されているものではないという。硬貨でも認識を共有することが大事で鳳凰堂を表面という指摘は正しいのだろう。
月光ソナタをB氏が作曲していたころに耳疾患が悪化、というのは事実の可能性は高いのだが、聴力を失ったというメッセージは誤解をされる可能性が高い。つまり聴力の低下は事実でも、それを「失った」というのは正確ではないかもしれない。作品27-2ソナタ14番で作曲意図は、幻想曲風に、つまり緩やかな音楽から終楽章で弓矢を放ったような緊張感の爆発、解放は彼ならではのコンセプト概念なのだろう。さらには聴力低下にあらがう音楽こそ、作曲したのであって「聴力を失った」という情報発信はだからイメージ操作になるといえる。
B氏は作品55変ホ長調Es3番交響曲を私演したのは1804年33歳のこと、第2楽章は葬送行進曲、その主題を変容させたのは1945年3月に1か月かけて作曲されたリヒャルト・シュトラウス1864.6/11ミュンヘン生れ~1949.9/8午前10:14ガルミッシュ寂、ゲーテの植物論から出た 根本的なものの変態変形つまり「変容」である。ドレスデンや、ウィーンそしてミュンヘンの国立歌劇場がつぎつぎに破壊されてその惨状を目の当たりにして「イン・メモリアム」と書いて作曲の終わりにした。コントラバス3、チェロとアルト5、ヴァイオリン10という23弦楽器ソロのための習作。終戦3週間前に完成。クロージングに入る間際に緊迫したゲネラルパウゼ総休止が聴き手に息をのませる。その年4/30には党総裁の死があり、5/7には連合国軍にドイツ降伏した経緯いきさつがある。なにより音楽としてミュンヘン市民を追悼する音楽のように認識してあながち、的外れとはいえないだろう。
オットー・クレンペラー指揮した1961年11月録音になるフィルハーモニアOオブロンドン、その年3月8日はサー・トーマス・ビーチャムの命日に当たることは、知っておいてよいかもしれない。曲、開始のチェロとアルトの木目細かいヴィヴラートは印象的、その後セカンドヴァイオリン群は右スピーカーからベートーヴェンの葬送行進曲でオーボエが吹奏する主題を演奏して、やがて、左スピーカーからファーストヴァイオリン群により応答が演奏される。これは、リヒャルト・シュトラウスのイメージそのものである。「スピーカ―」などという単語が示されると、音楽には無関係とか反応されるのがオチである。ところが、そうとばかりいえるものではあるまい。すなわち、音楽会では音楽はモノラル録音の様に響いていて、右とか左とか、非音楽的な議論というものが今までであった。ところが、現代はヴァイオリンが舞台両袖に展開されるダブルウイング配置が頻繁に展開されると、ソプラノアルトテノールバスというような左スピーカーVnから右スピーカーにコントラバスというステレオタイプは、否定される現代なのである。「目から鱗」が落ちるというのはこのことで、オットー・クレンペラーというビッグネイムのレコードは、再生する悦びがそこにある
R・シュトラウスはベートーヴェンの主題を頂いて対立葛藤を昇華し、さらに偉大な音楽を楽譜に成しえた稀有の作曲家といえる。音楽の根源に、演奏家の自由というコンセプトがある。何も限定することはない、自由である、というのは選択するのは自由というまでで、保障されているのはそうなのだがその上で、音楽に迫る、という課題は演奏家こそ背負うべきものだろう。音楽は聞こえればそれで良いというのは、モノラル時代の言葉であってステレオ録音では、中央、左右感、前と奥という配置感覚は、重要なテーマなのかなあ…