千曲万来余話その663「B氏7番という頂きからの眺め・・・ 」
3/26午後5時45分永遠の眠りついたのは1827年のこと、ベートーヴェン56歳はウィーン市ウェーリング中央墓地に眠る。(1888年6月中央墓地に改葬された)その15年前に彼は文豪ゲーテ当時63歳と親しく交流している。第5と6番田園作曲以来4年のインターヴァルを経過してその第2楽章は不滅のアレグレットとも称賛されている。アレグロ快速に、よりややゆっくり目で。このリズム動機は、ta-tataターター、タータタtaーtaーというもの、繰り返し反復である。いうまでもなくダンスのリズム、舞踏の聖化、このように評したのはワーグナーと言われている。神聖な音楽、それはB氏とゲーテの出会いによるものと考えるのは、あながち見当外れではないことなのだろう。
1975~76年録音になるカルロス・クライバー指揮したウィーン・フィルでオーボエ首席奏者は49歳のカール・マイヤーホーファーであった可能性が高い。この年、彼はアルプスに・・・ともいわれている。あの音色はチャーミングな香り高いもの、LPレコードでひときわ精彩を放っている。今は亡き指揮者岩城宏之、自分は亡くなる前最後のステージが最高の演奏だったと言われるつもりで舞台に立つ、とか話していたものだ。正に、経験からの真心込められた至言といえるだろう。
春分の日の宵の明星は、午後7時ころ西の黄昏に輝き放っている。ちょうどオリオン座のベルト三ツ星は水平になり、頭部のベテルギウス、左下のシリウス、その上に小犬座のプロキオンは大三角形を見せていて、北に振り向けば、ひしゃく星の北斗七星が縦に見えている。その下へ辿るとアークトゥールス、そしてスピカという春の大曲線が印象的である。星空の世界は、ベートーヴェンが眺めていた空と不変であろうことは想像するに難くない。
クライバー指揮した7番交響曲イ長調作品92はドイツグラモフォン屈指の名盤の一枚で、舞台中央にチェロとアルト、両袖にヴァイオリンが繰り広げられた古典的配置で、演奏者による音楽的対話、奥行き表現、左右感というベートーヴェンとゲーテの交流が立体的、印象的に記録されている。これを不滅の名盤と言わずしてなんなのだろう。演奏者達、ウィーン・フィルのメンバーは生き生きと演奏、指揮者の存在はあたかも作曲者の降臨であるかの歓びに満たされている。どういうことかというと、現在、演奏会で体験する機能主義ともいえるヴァイオリンを揃え舞台に並べられた弦楽器がコントラバスまで横ひと揃いでは、音楽として印象が弱い、表面的な表現に終始している。第1ヴァイオリンの隣にチェロが配置されることは、ヴァイオリンの音色がチェロと溶け合い、演奏効果として有機的な結果をもたらしている。倍音の強さ、アルトと第2ヴァイオリンがかみ手に揃えられることにより、運弓が効果を発揮されて舞台の上の演奏に力強さが加えられている。特に意表を突くような特別な演奏に走ることなく、安定した演奏により、聴いて充実感を味わう喜びこそ約束されている。この舞台上の重層構造は古典配置の絶対的な価値といえる。
民主主義というもの、多数決の原理として多数派に結果を譲るものなのであるのだが、少数派である古典配置のLPレコードは、決して否定、無視されるものではないだろう。民主主義とは一人一票の政治体制のことであり、多数派のヴァイオリンからアルト、チェロ、コントラバスという配置は古典配置を凌いでいるのだが、現在は、時代の変わり目ともいえる、古典配置の再興している時代であり、指揮者たちはクライバー指揮の業績を今一度再考する必要が迫られているといえるのではあるまいか?
作曲者の時代からのヴァイオリン・ダブルウイングという言葉は消え去られたものではなく、今、吟味される対象といえる。グィド・カンテルリ1956年からクレンペラー、クーベリック、クライバー指揮した記録ステレオ録音を再考されたい・・・