千曲万来余話その656「ブルックナー3番指揮者ヒロシ若杉NHK響・・・」
1884年9月4日ブルックナー還暦の祝賀会がフェクラブルックの町の造園家ヨハン・ネポンク・ヒューバーの妻になっていた妹ロザリエの家で催された。彼が名誉会員になっていたリーダーターフェルの歌や土地の教会の人たちによるセレナーデの演奏があったくらいのささやかでローカルな祝宴であった。この頃ブルックナーはウィーン歌劇場に行く時よく4階の天井桟敷に席を占めたが、そこで一般市民の娘マリー・デマールと知り合い、やがてその家族とも近づきになった。当時プラーテルの遊技場では、彼がこの乙女の周りで踊るのが見かけられたそうであるが、かりそめの縁はその後いつしか消えていた。今から45年ほど前オンブックスでマコトニオ・モンロイ氏著作これがクラシックだによると60歳の独身男は19歳の娘に手を出したとかのたもうている。だいたい想像をたくましくするとエピソードは一人歩きするものだが、このブルックナーの色恋事件は、交響曲第8番の創作時期と重なっている。ブラームスは大蛇がのたうちまわるかのような交響曲という評言が残されている。
交響曲第3番ニ短調は第1稿1873年12月完成84年加筆、第2稿1876~1878年、第3稿1888~89年で初演は1877年12月自身の指揮、第3稿1890年12月ハンス・リヒター指揮ウィーンフィルによる。第2稿は「ハース版」実際はエーザー版、第3稿はノヴァーク版。1873年の夏、バイロイトにワーグナーを訪問し最大の敬意をもってこれを献呈、「ワーグナー交響曲」ともいわれる。76年ウィーンフィル試演するも演奏不能の烙印を押された。当時、ブラームスとの結びつきが強く、ブルックナーの音楽は拒絶されたようである。2管編成という通常の形態ながらトロンボーンの吹奏などから室内楽的な交響曲というよりは、ロック音楽に近い音量を体験する。曲の開始はブルックナー特有の原始霧の中から射す光明のようで1973年9月10日130回札響定期ペーター・シュヴァルツ指揮で聴いた時は初雪の舞うウィーンの印象を受けている。確かこの定期からフルート首席に座っていたのが細川順三氏。轟くブラスの吹奏により弦楽の演奏もかなりヒートアップしていたものである。(1877年版使用)
キングインターナショナルから今年リリースされたヒロシ若杉ブルックナー交響曲全集第1巻1996年ライヴは福音である。7、3、8番。NHK交響楽団世界に誇る金字塔、伝説のブルックナー・チクルスinサントリーホールの演奏LP化完成。指揮者若杉弘氏の父君は、日米開戦時の駐米国公使若杉要かなめ。今年は誕生日5/31数えて87回、命日は2009年7月21日。東京藝術大学音楽学部声楽科から指揮科へ転進、1959年晴れて指揮者の道を歩みだしている。1972~75年には讀賣日本交響楽団常任指揮者、滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール初代芸術監督1998~2007年歴任、新国立劇場オペラ芸術監督在職時に芸術院会員のマエストロは死去している。堅実な音楽は堅実なキャリアを積み重ねて、ブルックナー・チクルスは1996年に開始して、2/26、3/31この演奏会レコード・テキストには対向配置、すなわち古典配置が採用されていたということである。
1980年代のウィーンフィル、モーツァルト交響曲全集録音では、ジェームズ・レヴァイン指揮によりヴァイオリンダブルウィングが採用されたレコーディング、当時、話題になったデジタル録音盤、その影響のもとにその10年後、サントリーホールで実現した演奏会でNHK交響楽団は名演奏を記録していたことになる。その4年後にネルロ・サンティが登場、指揮をして古典配置は普及することになる。なお北海道厚生年金会館では1996.3/18、マーラー9番交響曲を指揮した若杉氏の楽屋へ盤友人は足を運び、彼から「子どもの不思議な角笛」の話を聞いていた…