千曲万来余話その623「奏鳴曲「テムペスト」を、敬愛するハスキルは・・・」

 5日夜NHK-Eテレの番組放送、ショパンのマズルカ、前奏曲をファツィオリとスタインウエイで聴いた。脚部キァスターに気を付けてみると楽器に平行してセットされたのが共通していた。今から30年程前、日本フィルハーモニー交響楽団スタッフの発信では、細心の注意を払うという楽器のセッティングにおいて、ハの字ではなく本体に平行する向きで鍵盤下の脚部キャスターをセットすることの指摘が印象に残っていたものだ。多分鍵盤のタッチに影響していて、力のかかり具合は上下動に微妙な働きが加わるものと思われる。普通はハの字にする傾向なのだが、ストッパーが有る限り、その必要は考えられない。昨夜の映像を観て、その記憶が確認でき嬉しかった。
  クリケットレコードから求めたのはフィリップスのHiFiステレオレコード1960年9月ヴヴェイにおいて録音されたクララ・ハスキル演奏するベートーヴェン作曲ピアノソナタ17番18番。1955年ストックホルムで国際標準音会議が開催され1点A音ラは435ヘルツから440ヘルツに変更がなされている。現在、ピリオド(時代)楽器では430ヘルツとか、オーケストラの標準は442ヘルツなどに推移している。
 ハスキルは1960年12月6日ブリュッセルに行く際、駅構内で転倒(階段から足を踏み外して転落、病院に搬送されるも7日早朝に死去、モンパルナス墓地に埋葬された。ウィーンのクリティークで「クララ・ハスキルはモーツァルトを弾くために地上に遣わされた」と絶賛されていたものだが、ベートーヴェンでもシューベルト、ショパンでもその天才性は遺憾なく記録されている。享年65歳、誕生は1895.1/7ルーマニア国ブカレスト。1917年同地出身のピアニスト、ディヌ・リパッティとはナディア・ブーランジュ先生の引き合わせで1935年夏に実現、彼はピアノをコルトーのクラスでイヴォンヌ・ルフェビュールが受け持ち、作曲の担任はナディア・ブーランジェであった。同郷の二人はルーマニア語で会話して1939年7月から翌年の6月までは手紙のやり取りを頻繁に交わしていた。クララは「最愛なる弟にしてマエストロ」とディヌに書き送り、彼は彼女を「クラリネット」と呼びかけていたという。1938年10月にはポリニャック公妃のサロンでモーツァルト曲2台のピアノのための協奏曲変ホ長調を共演、演奏は大成功であった。1939.3フランス放送局においてシューベルトの2台のピアノのためのアレグロ、ブラームスのハイドン変奏曲を共演している。
 手紙で深まった二人の友情は、クララの大病、脳しゅよう1942年5月29日の手術は成功、パブロ・カザルスらにエールを贈られ奇跡的な回復に向かい、ジュネーブを経て11月にはヴヴェイに落ち着くことになる。一方、3年ほどの間隔の後1943年10月ジュネーブにてリンパ節にできた悪性腫瘍を発症したリパッティは、スイスに定住、同地音楽院のピアノ教授の職に就任、4年後には病魔に侵されて辞任する。ヴヴェイから1時間かけてジュネーブを訪問したクララはディヌとピアノ演奏を愉しんでいた。1949年にはスイス国籍を取得してディヌは「スイス国民にしてヴヴェイ村民である音楽のプリンセス、クララ・ハスキルへ」で始まるユーモラスな詩を送呈している。1950年には、リパッティとの共演がかなわなかったアルトゥール・グリュミオー、ハスキルとの出逢いが6月プラド音楽祭で実現する。12月にはディヌがジュネーブで死去、翌年6月にはシューベルト作曲ソナタ21番変ロ長調フィリップス録音がなされた。この10年ほど後にベートーヴェンのテムペストは録音されることになる。
 この曲はベートーヴェン1802年「ハイリゲンシュタットの遺書」が残された年に作品31で3曲のソナタからの1曲ニ短調で3楽章構成。弟子のアントン・シントラーに、この曲を理解するにはシェークスピア1611年作戯曲「テムペスト」嵐を読むことだと伝えられている。・・・われわれは、夢と同じもので織り成されている・・・プロスペロウの科白はベートーヴェンを古典派の音楽からロマン派音楽へのブリッジとして機能している。この曲は、低音域から上へ、高音域から下へと繰り返し交互に演奏されて、あたかもシューベルト曲糸をつむぐグレートヒェンの糸車の音楽かのように第3楽章アレグレットの運動感は躍動する。第1楽章の左手からの分散和音により、右手で打鍵して倍音は延びる。オーディオでさかんに指摘される「倍音」は、フィリップスHiFiステレオ録音で明瞭に記録されている。すなわち、アナログ録音で発揮される倍音は、演奏者が再生してそれを記録された音楽を、鑑賞者は無類の感動をもって悦びを獲得する。ハスキルの遺言であるかのようなレコード演奏は、12月7日彼女の命日に、世界の愛好家の唯一の慰めとなることだろう・・・これまでは、ステレオテイク・モノラル盤A 02073 L を愛聴していた。このたびステレオ・オリジナル盤を入手して、楽器音響の定位が左右スピーカーの中央にあり倍音が延びる感覚はステレオならではの経験♪となる。モノラル録音と微妙にスタジオの空間感覚再生できた悦びは、貴重なものである・・・