千曲万来余話その619「ボロディン弦楽四重奏曲ノットゥルノという名旋律の魅力・・・」
今年の秋は温かくて初雪の平年値は11/1辺りなのだが札幌は落ち葉舞う木枯らしの季節、もみじの錦や銀杏の黄葉が目に鮮やかである。こんな秋の夜長に弦楽四重奏曲が似つかわしい。
アレクサンドル・ポルフィレヴィチ・ボロディン1833.11/12ペテルブルグ生れ~1887.2/27同地没、貴族と軍人の娘の間の私生児で祖先はトルコ系民族と考えられるロシアの作曲家。母方の祖母はコーカサス、グルジア王族の出身でありアジア系ともいわれる。戸籍は農奴ボロディン姓であるが実父母に育てられていた。彼には楽才が有って9歳でピアノ連弾用のポルカを作曲したと伝えられる。1847年にはフルートとピアノのための協奏曲、ヴァイオリンとチェロのために「マイヤベーヤ歌劇鬼のロベールの主題による変奏曲」を作曲している。音楽への興味とともに化学に熱中し将来は化学者として医科大学の薬学部に入学し1856年卒業すると陸軍病院勤務、57年に西欧に旅行してこの当時ムソルグスキーに会いシューマンの音楽を紹介されて、その新しい傾向に魅せられることになる。58年ハイデルベルグ大学に留学し61年、のちに妻となるエカテリーナ・セルゲイエヴナ・プロトポポーヴァを知り婚約、62年には彼女と帰国して63年に結婚している。
当時彼はチェロを弾き室内楽に親しんでいた。帰国後母校の教授に就任、生涯有機化学の研究者としての業績を残した。つまり化学者と作曲家の二刀流ツーウエイが人生であった。リムスキー=コルサコフ、キュイ、バラキレフ、ムソルグスキーそしてボロディンという作曲者グループいわゆるロシア「五人組」、国民音楽的理念で共感、本格的な作曲活動が展開されて行く。74年に交響曲第2番、歌劇イーゴリ公など立て続けに作曲、これが機縁となりワイマールでF・リストに激賞され西欧で紹介される。79年に弦楽四重奏曲第1番を完成、80年皇帝アレクサンドル二世の即位30周年記念作として交響詩「中央アジアの草原で」を作曲、その後弦楽四重奏曲第2番を81-85年に作曲している。ただし交響曲第3番やイーゴリ公は未完のままに終わっている。オペラ自体はR=コルサコフやグラズノフの補筆により完成し90年ペテルブルグのマリインスキー劇場で初演されることになる。
歌劇イーゴリ公からだったん人の踊りで中間部の夢見るような旋律は、ボロディンが旋律職人メロディーメーカーとしての代名詞であり、弦楽四重奏曲第2番ニ長調ノットゥルノ小夜曲の第3楽章アンダンテは広く知られた音楽である。この第2番ニ長調は、第1楽章アレグロ、モデラート快速に中庸でというもの、ボロディン弦楽四重奏団はチェロ、ヴァレンティン・ベルリンスキーの冒頭演奏に開始し、第1ヴァイオリンのロスティスラフ・ドゥビンスキーが歌い続ける。第2楽章はスケルツォ、諧謔的にたわむれてというもので、レコードを再生すると、第1、第2ヴァイオリン、アルト=ヴィオラのドミトリ・シェバーリンはf字孔をマイクロフォンに正対させている。チェロの配置は舞台上手で低音を床に響かせている。
1963年初期ステレオ録音は、第3楽章アンダンテを愉しむとき、盤友人は首をかしげる。どういうことかというと、第2ヴァイオリンが低い音域から高い方へと旋律は駆け上がり、第1ヴァイオリンが呼応する。同じ音楽であり、それが左側で展開する。これが、疑問、というものである。すなわちVn両翼配置で演奏されると左右舞台上での広がりは、聴きものであると同時に左右に展開する視覚的な効果が抜群なのである。だから、第1Vnとチェロによる対向配置より、舞台中央にチェロとアルトの低音域、ヴァイオリン・ダブルウイングこそステレオ録音に必要とされる。第4楽章フィナーレでは、このレコードで第2ヴァイオリン、ヤロスラフ・アレクサンドロフのトレモロという小刻みな音楽が舞台上手に配置されてこそ効果を発揮する…