千曲万来余話その613「シューマン曲アダージォとアレグロ伝説デニス永遠の緑グリーン・・・」
9/19恵庭SPレコード倶楽部の297定例鑑賞会で、モーツァルトK407ホルン五重奏曲を聴いた。独奏者はデニス・ブレイン1921.5/17ロンドン生まれ~1957.9/1ハートフォード没。SPというのは78回転のスタンダード・プレイング、12インチ盤2枚で表裏4面で全曲録音を再生することになる。グリラー四重奏団員とアルト=ヴィオラのマックス・ギルバートのデッカ録音。耳にしたホルンの音は円やかで豊麗、伸びやかなデニスの音楽性を余すところなく再生する記録である。1944.10/6-25録音というクレジットから、当時23歳のデニスは英国空軍中央音楽隊所属、幼いころから父親オーブリー・ブレイン1893.7/12~1955.9/20の影響で、彼の練習中「自分にも吹かせてほしい」とのホルン初体験はデニス3歳の時であったという兄レナードの証言がある。祖父にアルフレッド・エドウィン・ブレイン1860.2/4~1929.10/25を持ち、彼はクイーンズホールオーケストラ、ロンドンシンフォニーで活躍、ヘンリーウッド指揮のもと礎を築いている。デニスの父オーブリーはBBC交響楽団の首席で活躍、1935年にはアドルフ・ブッシュ指揮でバッハのブランデンブルグ協奏曲第1番、親子共演が記録されている。
その当時の使用楽器は、仏ラウー製であり父オーブリーと同一メーカーであった。モーツァルトのホルン五重奏曲1944年録音には明らかに「ラウー」の音色を示していてリリック・ソプラノのような滑らかなハイトーンが特色、1948.3/26フィルハーモニア・オーケストラ・オブ・ロンドンに登場したウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮でキルステン・フラグスタート独唱、ワーグナー曲ブリュンヒルデの自己犠牲などSP録音が有る。同年4月にはプロデューサー、ウォルター・レッグの企画ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮でデニスは演奏している。
この当時彼の楽器は、B♭管の「ラウー」だったのだがドイツのアレキサンダー社製品との出会いがあったようで、1952年4/22、ジェラルド・ムーアのピアノ共演で、シューマン「アダージォとアレグロ変イ長調作品70」録音している使用楽器は「アレキサンダー」である。ラウーとの違いは、中低音域の豊麗さである。メッツォ・ソプラノのように、らくらくとしたハイトーンに加えて、深々とふくよかな広い中低音を獲得している。名手ジェラルド・ムーアの共演はムーアの豊かな共演経歴、歌手や弦楽器奏者と共に、名手デニス・ブレインのホルンが加えられたという広がりを意味している。あたかもロマン派音楽のシューマン1810.6/8~1856.7/29は古典派から受け継いだ造形性の上に、感情豊かな音楽を繰り広げるロマン派の精神で、例えばブラームス1833.5/7∼1897.4/3は交響曲1番の第2楽章で独奏をホルンに担当させたのは1876年初演のこと。
フィルハーモニア管弦楽団を指揮してブラームス交響曲全曲を披露したアルトゥーロ・トスカニーニは、1952.9/29-10/1ライヴ録音を残している。デニスのホルン独奏はアポロン的に高貴な演奏を披露して、トスカニーニの称賛を獲得している。なお同年6月に誕生した長男はアンソニー(愛称トニー)と名付けられている。多分この使用されている楽器は「アレキ」で、長年N響首席ホルン奏者を務めた千葉馨さんは、1956年12月に訪英デニス・ブレインに師事していた。その時は「ばらの騎士」全曲録音の合間、レッスン料を彼は3ギニーで高すぎるかな?と語っていたと証言している。当時の3ポンド3シリングは日本円で大体3000円相当とのことである。1ドル360円の時この円とドルの関係は、一円が360度という数字によるという話もある。
ルツェルンではカラヤンが自家用車メルセデスにデニスを運転させていたとの話、D・Bの最期は日曜5時トライアンフTR2運転中だったとか伝え聞く・・・