千曲万来余話その612「モーツァルト交響曲1番、ホグウッドの価値・・・」
9月21日は中秋の名月、十五夜さんに当たる。平安時代、管弦の遊びというと月夜に舟を浮かべ満月も描かれるパターン、このイメージは象徴的であり、あの時代から月は何一つ変化していないのだろう。アナログの世界は、ノイマンはカートリジがレコードの溝に触れるという針圧5.9グラムのことだし、別なカートリジでは軽針圧1グラムの人たちもいるだろうし、3.5グラムの人もいることだろう。ここには地上の目には見えねども、太陽、地球、月という万有引力の世界が関係している。
クリストファー・ホグウッド1941.9/10英ノッティンガム生れ~2014.9/24ケンブリジ没は1984年コピーライトでモーツァルトの交響曲を録音している。第1番変ホ長調K16。モーツァルトは1764年末から65年にかけて8歳で交響曲を作曲している。先生はクリスティアン・バッハ。その近くでいうとヨゼフ・ハイドンは27歳で交響曲1番を1759年に作曲。シンフォニーの語源はシンフォニアにあり、以前はオラトリオ聖譚曲などの管弦楽のみの部分であった。さらには三声部の音楽を意味していたから、基本は低声、中声、高声部の旋律を組み合わせた多声部ポリファニーの音楽である。ホグウッドのレコードを再生するに、コントラバスは堂々と中央に配置されている。左右には第1と第2Vnが振り分けられる。ということは、第1Vnの後ろにアルト=ヴィオラが奏でられる。
1960年代から多数派は第1と第2ヴァイオリンは束ねられて、指揮者右手側にチェロ、コントラバスが配置される。これはどういうことかというと、ステレオ録音の普及により、左スピーカーは高音部で右スピーカーは低音部を受け持つという時代なのであった。やがて、管弦楽は古楽器の時代を迎えて、時代楽器ピリオドという洗礼を受ける。作曲家の時代に立ち返ろうというムーヴメントにより、楽器配置も第1と第2ヴァイオリンを振り分けるという古典配置という「先祖返り」が進行していったといえる。テレヴィジョンという情報媒体メディアNHK-Eテレもそれから40年余り経過して、たとえば、井上道義という斉藤秀雄門下生がNHK交響楽団を指揮して、ホグウッド指揮型の楽器配置を採用、B氏の「英雄」が実演される時代となった。これは、時代の趨勢であり、自然な成り行きなのであろう。
これは、スピーカーからの聞こえ方の問題にとどまることではあるまい。音楽の時代的要求なのだろう。第1第2Vnが束ねられると演奏、アンサンブルのハードルは下がっていたのであって、ハードルを上げる努力こそ時代の要請といえるだろう。今まで通りというのは、昔のこととなり、新しい時代には以前の音楽は否定される運命にある。B氏の「運命」が象徴するのは、第1と第2ヴァイオリンを振り分けた古典配置こそ理想なのであって、それは、このモーツァルト演奏を再生することにより、一層明らかとなる。
第2楽章でもって、ホルンの演奏アンダンテ歩くような速さのテンポで、ドーレーファーミーという音楽に出会う。お気づきの方はすぐにひらめく、「ジュピター」第4楽章に現われる動機がそれである。8歳の時から32歳の後期3大交響曲作曲にまで、一直線に連なる音楽的なつながりが浮かび上がるのだ。これが、Vnダブルウイング両翼配置と如何なる関係にあるのか? 音楽そのものの力に関係する。すなわち1番の交響曲を、生き生きと再生するにはホグウッド指揮の古典配置で再生されて蘇る音楽なのであり、取り上げられるからは、作曲家の時代の楽器配置こそ生命力を持つといえる。
第3楽章の第2ヴァイオリンの活躍は、舞台の袖に相応しい。テレビ朝日「題名のない音楽会」で取り上げられた、シューベルト5番交響曲や、ハイドンの「告別」お仕舞いで第2Vnと第1Vnの対話こそ、位置をキープして象徴的である・・・