千曲万来余話その608武満徹曲、弦楽のためのレクイエム、小澤征爾指揮トロント交響楽団」

 お盆の季節、先祖の霊をお弔いする日本の夏、昨今のコロナ禍でも感染予防対策を講じた人々の営みは貴重な行事である。家族の絆を実感する。霊魂不滅を語るよりも営々とした行為こそ、自然な成り行きであり習俗の歴史なのであろう。
 レクイエムとは、鎮魂のミサ曲で管弦楽に独唱と合唱をともなう。ここでの「弦楽のためのレクイエム」(1957)は弦楽5部による10分程度の小品。これを聴いたイーゴリ・ストラヴィンスキーは、この小さい男が作曲した音楽は実に厳しいというコメントを残している。武満徹1930.10/8 東京・本郷~1996.2/20東京没の父親はジャズ好き、特にブルースを好み、鳥好きで鳥寄せコンクール1位の名人だった。戦後、作曲家を志し1948年に短期間清瀬保二に作曲を学んだ。1950年「新作曲家協会」に入り、その第7回作品発表会でピアノ曲「2つのレント」(50年)音楽用語レントは「遅く、緩やかに」でアンダンテが歩くような速さで、アダージォは緩やかに、そしてレントで、アダージェットはアダージォよりやや速くになる。武満の処女作になる独奏曲を、音楽評論家山根銀二は「音楽以前である」と酷評して、ジャーナリスト草柳大蔵によると帰りの駅構内で武満は涙を流したと証言している。当時の音楽評論の基準は、ドイツ音楽主流にあって、その美学の観点から「発展」の基本で否定的評論を被ることになったのだ。
 武満は新しい音楽の作曲を目指し1951年「実験工房」を結成、音楽家、詩人、画家らを含んだ芸術の総合グループで57年まで構成を続けた。メンバーは湯浅譲二、園田高広、鈴木博義、秋山邦晴ら。「音の河」という彼の思考の最初の実現でスタートしてから1958年の第2回軽井沢現代音楽祭で1位となる。「レクイエム」は出世作となり60年にドイツ大使賞を獲得、第2期は新たな実験の時代で61年作曲「ピアノディスタンス」に始まる。伝統邦楽器の採用により映画音楽「怪談」などへと展開、尺八と琵琶、二群の管弦楽のための「ノーヴェンバーステップス」(1967)など前衛の時代を繰り広げる。<今日の音楽:ミュージック・トゥデイ>を通して作品発表、「カトレーンⅠ」(1975)尾高賞受賞からは、「世界の武満」時代で「パリの秋」フェスティバル出品「ア・ストリング・アラウンド・オータム」(1989)など第3期を形成している。
 オリヴィエ・メスィアン1908.12/10~1992.4/27は、武満の管弦楽法に対して「今の曲はどの楽器を鳴らしていたか?」と質問するなど、もはやアドヴァイスを乞われる存在になっていた。ストラヴィンスキーやメスィアンなどの他にも、ジョン・ケージ、カールハインツ・シュトックハイゼン、ピエール・ブーレーズ、ルチアーノ・ベリオ、ルイジ・ノーノといった同時代音楽コンテンポラリーの歴史に仲間入りして、オーケストラを日本人の感性で自由自在に作曲したのがトオル・タケミツなのだろう。よく人は「現代音楽にはメロディーが無い」と口にするのだが武満徹「自分の音楽はメロディーに満ちている」といって憚らない。    無限旋律の発想はワーグナー曲「トリスタンとイゾルデ」まで遡ることが可能である。武満が発信するには、ベートーヴェンは古い音楽に新しい音楽の創造を加えたものであり、ブーレーズらとの連帯は、これまでの時代に対する深い反省の上にあるとしている。12音音楽の時代から調性、無調性へと発展しさらに新しい時代を目指す。
 早坂文雄1914.8/19仙台生れは、1955.10/15東京にて死去、彼は札幌で伊福部昭らと1932年に新音楽連盟を創立、40年独立作曲家協会、50年映画音楽協会結成、同年黒澤明監督「羅生門」音楽担当この音楽などラヴェル曲ボレロを思わせる。早坂の八面六臂の活躍、業績に対して、武満は「弦楽レクイエム」(57)を捧げたのだろう…