千曲万来余話その605~「シューマン交響曲2番、レニー指揮するボストン響1946年3/23録音・・・」
札幌夏の風物詩にPMF国際教育音楽祭7/25、ホストシティーオーケストラで指揮者大植英次がシューマンの第2交響曲ハ長調を取り上げた。DVDのソース、PMFオーケストラをレナード・バーンスタインが指揮した映像は、1990.7上演されたもので指揮者がそのわずか3か月後10/14に帰天している。偶然なことにそのシーズンのロンドン交響楽団札幌厚生年金会館公演、シベリウス交響曲1番ホ短調を指揮したレニーの姿を目に焼き付けている。独奏クラリネットのあと曲が進みそしてバタンと大きな音がして、一瞬何事か分からずレニーが「ストップストップ!」オーケストラの演奏を止めた。何やらして楽員たちがゾロゾロと両袖に引き返して、ステージで倒れていた楽員の一人が運ばれて行った。レニーは指揮台の上で指示を出し、倒れたのが彼ではないことが何よりだった。後で聞くと、アシスタントのクラリネット奏者が高血圧で卒倒、糖尿病持ちだったとのこと。全員が再びステージに勢ぞろいして交響曲は白熱の演奏を展開していった。レニーは何事もなく指揮をして聴衆の喝采を浴びていた。
バーンスタイン1918.8/25米国マサチューセッツ州ローレンス生れ~1990.10/14ニューヨーク没は、パシフィック・ミュージックフェスティバルの北京で開催を企画していたが4~6月の天安門事件により頓挫、急きょ札幌の故・竹津宜男氏らの働きかけで札幌開催が実現したことになる。レニーは作曲家、指揮者、ピアニスト、教育者として活躍、タングルウッド、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン、札幌で教育音楽祭を主宰するなど晩年は教育活動に力を傾注していた。「あなたは自分が音楽家か?疑問を持たなくなったとき音楽家といえる」このひと言は、レニーの至言であり極めて明快な若者へのサゼスションだろう。2020年はあいにくのコロナ禍、中止せざるを得ない状況で今年はオンライン企画などによりかろうじて開催され7/23や7/24には原田慶太楼指揮によりコープランド、ガーシュインらでオーケストラJAPANのキタラホール公演を実現した。この公演はヴァイオリン・ダブルウイングで溌剌とし印象的な成功をおさめた。
盤友人のシステムで、モノラルカートリジ専用アームRF309、ガラード301ハンマートーンシルバー仕様というプレーヤーシステムを7/24に導入した。コストとして軽自動車1台分でモノラルLP再生する強力なランクアップを実現。オーディオ人生42年目してである。伊メロドラム社レコード番号206は、プレス1980年で1946.3/23ボストン録音。シューマンの交響曲2番ハ長調作品61。ボストン交響楽団当時の音楽監督はセルゲイ・クーセヴィツキー。ライヴ録音でホールトーンが豊かな特徴、ティンパニーの量感がたまらない。交響曲1846.11/5初演で2管編成、トロンボーンは3本仕様。緩徐楽章は第3楽章配置、これはベートーヴェンでいうと「第9」1824.5/7初演で採用されている。ベルリオーズ「幻想」1830.12/5、メンデルスゾーン「スコットランド」1842.3/3、マーラーでいうと第6番「悲劇的」1906.5/27、ショスターコーヴィチ第5番「革命」1937.11/21初演ということになる。
シューマンがロマン派音楽の旗頭というのは、ブラームスが交響曲でこの緩徐楽章配置を採用しなかったのが暗示的ですなわち、古典派とは異なる疾風怒濤シュトルム・ウント・ドランク時代音楽の典型だからといえるのだろう。レニー28歳の指揮ぶりは、すでに様式感が確立されていて、作曲家であり指揮者でもあるというのはバーンスタインの真骨頂である。
モノラル録音を専用システムで再生する意義は、音像の鮮明さと音圧確保の2本立てというところにある。幕切れで聴衆の拍手という熱気は不滅の記録として、ワクワクさせられてしまうから…