千曲万来余話その600~「フォーレ曲レクイエム、21世紀の演奏スタイル・・・」
小編成管弦楽と合唱団による鎮魂曲、指揮フィリップ・ヘレヴェッヘ、Sop.ヨハネッテ・ゾマー、Bar.シュテファン・ゲンツ、シャペルロワイヤル管弦楽団、合唱団、1901年改訂版による。ガブリエル・フォーレ1845~1924私のレクイエムは、何かのためにではなく、もしかしたら悦びのために、作曲されたかもしれない、と語っている。
学生時代にある友達は、死者のためにとは、意味がなく考えられないという持論でレクイエムを否定した考え方を披露した。死者のためのミサ曲。これは音楽なのだから、誰かのためにとはかたられるものの、練習に取り組み音楽会で演奏するからには、演奏者の内なる「死せる者」に対して歌われるものであろう。すなわち、現実の世界から観念の世界へと飛翔した音楽といえる。現実の誰かのためにではなく、このヘレヴェッヘ指揮した音楽は、20世紀にたいするレクイエムのように聴いた。2001年11月23、24日録音。
ヘレヴェッヘの音楽は、大げさな身振り手振りを排して、ピュアな和声ハーモニーを目指している。管弦楽のふっくらとした音響で開始され、死者の永遠の安息を祈る。コーラスは、ピタリと音程を定めて美しい歌唱を開始する。レクイエム、エテルナム。人はこの世に生を与えられ、いつか天上へと昇天する。ここでいえることは、後に続く人々の胸に残ることである。たぶん、人の心の中、たとえば、ベートーヴェンなら1827年3月に昇天して不思議にも、盤友人の心の中には魂は宿っている、という言い方はできるのだろう。つまり、死んで無になるという考え方の他に、後世の人の心に宿る、故永六輔氏は「人は二度死ぬ、一度目は肉体の死で二度目は人々の記憶から亡くなったとき」と語っていたのである。だから、霊魂とはすなわち、心の中に有ることをいい、物体から離れたものをいう。
音楽と音とは微妙にズレていて、音を通して音楽を楽しむものであり、音楽とは心に想起するものをいう。音は楽しいであり、音楽、そして楽音は音を楽しむというこの違いである。ヲニと会ったら返れというのは漢文で高校生は学習する。登山、山に登る、読書は書を読むということになる。レ点。音楽とはだから、音から離れてこそ、音楽になり、物音は音楽にはならないだろう。
この千曲万来余話は、めでたくも600回を数えることに到達する。考えてもみてください、読者の皆様が居なければ続かなかった話で、ここに至るのはサイトアクセス閲覧が有ったからです。皆様に感謝申し上げます。単なるヒマつぶしの方から、いや、情報の獲得を目指す方まで十人十色と想像します。期待に応える努力こそ、継続の力であり、活力となりました。これからも、LPレコード、アナログ世界の情報提供を目指します。
令和3年6月はCOVID19のパンデミック第4波にある。ウイルスがゼロになるには、時間が必要であり、しばらくは集団免疫できるまでウイルスとの共生時代となる。くれぐれも、感染予防対策必須だろう。ますますオーディオ世界の必要性が問われるだろう。
良い音とは何か? 音楽再生のために、スピーカーが、録音した記録の世界を再現する音こそ求められる。単なる情報にとどまらず、記録された音楽の再生こそ目標、感性の世界では、ワクワク感、すなわち理解ではなく感じる音楽こそ、求めてやまない、時間の芸術である。
入祭唱とキリエ、奉献唱オッフェリトリウム、サンクトゥス聖なるかな、ピエイエズああイエス、アニュスデイ神の小羊、後半では冒頭部分、レクイエムエテルナム永遠に安息あれが再現される。リベラメわれを許し給えリベラ・メ・ドミネ、インパラディスム楽園への道、オルガンの分散和音と後半ではハープが加わり、ソプラノの斉唱、コーラスは永遠の安息を祈る・・・