千曲万来余話その577~「2021ウィーンフィルニューイヤーコンサート、ムーティ指揮・・・ 」

 賀正、新年が佳き年となりますように。読者の皆さんにとって実り多い年にと祈念します。
  今年ニューイヤーコンサートはリッカルド・ムーティ1941.7/28ナポリ出身、指揮する素晴らしい演奏会で開幕された。ムーティは1967年グィド・カンテルリ国際指揮者コンクールグランプリ、ちなみに、70年グランプリは井上道義、ムーティは1975年ウィーンフィル来日公演でカール・ベームに帯同していた。ニューイヤー最近の登場は2018年、1993年97年2000年04年と常連株でウィーンフィルデビュウは1971.8/11ザルツブルク音楽祭のドニゼッティ曲、歌劇ドン・パスクワーレの成功からになる。
 今年の「ニューイヤー」は無観客TV中継配信演奏会で大変残念な成り行き、けれどウィーンフィル自体は、フルトヴェングラー指揮の時代から、スタジオ録音と銘打たれていたものは、そのほとんどムズィークフェライン無観客によるモノラル録音であって、彼らの歴史からいうと、すでに経験済みの事なのである。ただし2018年のLPレコードには、満場の喝采が記録されていてそれからすると、いわずもがなの演奏会ではあった。今年の美しき青きドナウでの、ホルン吹奏は殊更抜群に聞こえたの盤友人ひとりだけのことだったのだろうか、否、TV鑑賞されたみなさん全て心踊らされたことなのだろう。ギュンター・ヘーグナーの後継者としてウォルフガング・トンベックJr、ラルス・ミヒャエル・ストランスキー、ロナルド・ヤネツィックなど錚々たるメンバーが座っている。ホルンという楽器は、微妙な音程保持があって、経験の少ない演奏者は、よく「ころぶ」という音外しが有る。そのオーケストラの力量と比例していて、バロメーターだろう。この安定感こそ管弦楽鑑賞の醍醐味の一つである。
 ムーティの指揮振りは、決して派手ではなく、かつ、脱力系とは正反対の熱血指揮はデビュウ以来変わっていない。今年の指揮もウィーンフィルがなかなかドライヴに反応しないだけではなく、オーケストラが主導権を握り、逆に、ムーティは、なかなかキューを出さずに「溜め」を作るなど丁々発止で火花が飛び散る、手に汗握るシュトラウス演奏会になっていたといえる。これは、指揮者とオーケストラが信頼関係土台とした、玄人好みの演奏会なのである。もちろん、素人も大盛り上がりとなるものなのだろう。2018年の演奏でも、ラデツキィ行進曲でのムズィークフェライン満場の手拍子のあの圧力は滅多に経験できない代物だ。
 テレヴィを見ていて女性奏者の数の多さにも隔世の感があるといえる。今ですら当然の風景なのだろうが、カラヤンの頃までは、男性奏者のみのオーケストラであった。K氏が積極的に女性採用入団を推進していたのは有名である。その実現は90年代からの景色で、ダイバーシティ多様性の時代経過といえる。
 時を同じくして、Vn両翼配置が復活、ようやくにして作曲家当時の楽器配置が実現したといえる。音楽が「音」だけをとらえて、指揮者の左手側からVn、アルト、チェロ、コントラバスという並べ方は、近代ステレオ観ともいえる、指揮者右手側に低音を配置する感覚になる。いみじくも、2020年1月、ジョン・ウィリアムスはそのような配置で「スターウォーズ」を演奏していたことにより、その意味はより明確化されたといえる。近代の音楽性は舞台下手が高音域で舞台上手は低音域という前提に楽器配置を徹底したものなのだが、それはクラシック音楽の場合、最上の配置破壊と等しいものであった。たとえば、ベートーヴェンの交響曲をそのように設定した音楽は、もはや古いファッションなのだろう。
 ムーティは何食わぬ顔して平気、堂々と、ウィーンフィルの指揮台に登場しているということは、これからの指揮者のあり方を示唆しているのだろう…