千曲万来余話その573~「シューマン交響的練習曲、コルトーを再生する愉悦・・・」
オーディオ装置の向上には、多少の経費が必要であろう。どのような音楽を求めるかという目的なしに考えられない。アナログ、ヴィンテージという枠の中で1950年代の再生音を目標として、ということは、第二次大戦後の世界である。大変な時代を経過して人々が求めてやまない音楽の世界に近づけようという努力が、盤友人にとっての、よすがである。フォノ・イコライザーアンプを持ち込むことにより、再生音に格段の透明感を獲得できた。1929年録音HMV。アルフレッド・コルトー1877.9/26瑞西ニヨン生まれ~1962.6/15ローザンヌ没は、20代の頃ピアニスト、指揮者として活躍バイロイトで副指揮者を務める。1902年25歳パリでワーグナー神々の黄昏、トリスタンとイゾルデのフランス初演を指揮。1928年パリ交響楽団を設立の際は、6歳年下のアンセルメとともに指揮者に就任している。1905年からカザルスのチェロと、ティボーのVnというピアノ三重奏団の活動を1933年まで継続、オフ・シーズンの6月にパリで演奏会を開催していた。★07年母校パリ音楽院の教授に招聘されている。主任教授に任命され、1917年世界第一次大戦終戦の前年まで就任、国際的な新風を送り込んだ。革命直前のロシア訪問、18年には交響楽団ソリストとして訪米、その翌シーズンにはニューヨークでワルター・ダムロッシュ指揮するニューヨーク交響楽協会とベートーヴェンの協奏曲全5曲を演奏した。パリコンセールバトワール教授退任後、エコール・ノルマル・ド・ミュージックという音楽学校を創立している。ソルフェージュ、和声分析、音楽形式、音楽史など知的テクニックにもとずく良きテクニックを修得するという教育理念を実践した。第1次大戦後20年間は、ピアニスト、教育家、文筆家として活躍をしている。
ドイツ第三帝国の影響により、コルトーはレジスタス運動には不参加、親ドイツ路線を歩み、第2次大戦後ローザンヌに幽閉。フルトヴェングラーの活動再開にあわせて、48年エディンバラ音楽祭でショパン・プログラムを演奏してリサイタルを開いた。カザルスはよりをもどし、58年プラード音楽祭に彼を招いている。5年前にティボーは亡くなっていてのことである。その6年前、52年、一度だけの来日公演が日比谷公会堂で実現、75歳で技術的なハンディを超えて当時の聴衆に巨匠の芸術は感銘深いものだったと言われている。東京での最後の演奏会11月12日。
ロベルト・シューマンの交響的練習曲作品13は、主題と12の練習曲で構成されている。ウィーンでの楽譜出版は1837年のこと。フォン・フリッケン男爵がフルートのために書いた旋律、彼は養父で娘のエルネスティーネ・フォン・フリッケンにロベルトは恋していたという。ということは、シューマンが一所懸命作曲したピアノ曲は、いかにもシューマンらしい音楽に仕上がっていて、古典派と一線を画するロマン派特有の夢幻性を帯びている。ベートーヴェンの後姿をシューベルトは追いかけていて、シューマンはその先の音楽世界を創造するのに成功しているといえる。正に、コルトーの一所懸命に演奏するピアノ・プレイエルはその夢幻性の再生であり、シューマンの作曲こそコルトーの世界といえるのだろう。イコライザーアンプの採用によりモノラル録音の透明感は格段に向上して、一音一音の連なりが姿を現す。つまり旋律線のフレーズを克明に描き分けるコルトーのタッチは不滅であり、ピアノとフォルテのストレスの表現は、リズムの躍動感を浮き立たせる。一所懸命なコルトーこそ、不滅の芸術であり、オーディオ再生の究極の目標となるから、モノラルレコードの価値は、ピアノの倍音再生だ。スピーカー全体が楽器の音響となり、そこに、コルトーの姿が浮かび上がる瞬間こそ醍醐味であろう・・・