千曲万来余話その571~「ドボルジャーク、弦楽四重奏曲アメリカ、グリラー四重奏団の名演奏・・・ 」
ドヴォルジャーク1841.9/8ネラホゼヴェス生まれ。弦楽四重奏曲「アメリカ」というニックネイムは、黒人とアメリカ・インディアンの民謡に関わりがあり「ニガー」というのは全体的ではなく、かつ時代により配慮すべき意味合いがある呼称のために現代日本では「アメリカ」とされているヘ長調作品96。作曲当時アメリカ本土の生活から米黒人への郷愁が感じられる。特に第2楽章レント緩やかには、民謡風旋律を主題を繰り返し受け継がれる。主題がVnからチェロに引き継がれるのは印象的である。いえることは、深いメランコリーと、慰めに満ちた感情が切々と歌い上げられる。これは作曲者による黒人たちに対する強く深い理解の上になる作曲でありプラハへの望郷の念と一対である。第3から第4楽章へヴィヴァーチェさらに、はなはだしくなく快活にフィナーレを迎える。
1893年完成、神への感謝、スケッチは3日間くらいで仕上げられている。1892年から1895年4月までニューヨーク・ナショナル音楽院の教授、院長として業績を残している。プラハに帰国、同音楽院長就任して1904.5/1腎臓病により急逝62歳。14曲の四重奏曲の中で後期作品第12番になる。
モノラル・デッカ録音LXT2530のレコード1950年代前半のものでグリラー四重奏団。輝かしい音色からメランコリーに満ちた深い悲しみを湛えた歌に溢れた演奏。モノラル録音というものは、マイクロフォンに正対した楽器の音色を鑑賞することになる。だからチェロとアルト=ヴィオラがスピーカー中央に聴けるのは大いなる歓びであり、第二ヴァイオリンを第一と分けられるイメージは格別なものがある。現代は古典的配置、ヴァイオリン両翼配置が復興している時代であり、室内楽でも聞かれるものと思いきや、Vnとチェロを正対される多数派の演奏に、つまらない思いをしているのは、盤友人だけのことなのだろろうか?
演奏家たちは演奏する立場から、Vnの第一と第二を舞台下手にそろえることにより、自然、アルト、チェロは舞台上手配置に振り分けられるステレオ録音が多数派である。この「アメリカ」を聴いて、第二Vnを第一と正対させることにより、聴く立場としては、聴きやすくなることこの上ない。第一Vnに続いて、チェロがテーマを引き渡されるのは上手中央にチェロが座って成立する話である。現代の両翼配置復興を考えた時、弦楽四重奏はその配置により歓びのグレードは向上することだろう。すなわち、ステレオ時代の多数派形成は演奏者主体の時代であって、聴衆のことを考慮したとき、古典配置は成立するものなのだろう。チェロを第一Vnと揃える発想は、モノラル録音を聴いていると、自然、導かれるものなのである。第二Vnのコキコキコキという伴奏は、上手に配置すると聞きやすくなる。
演奏家は、音を出すのが仕事だから、配置は問題にしないという。それでは音楽とは何か? 心の中にある旋律、リズム、ハーモニーであり、音は必要条件なのだが十分とはいえないものであり、聴衆の存在と共有するもの、それこそ音楽なのであろう。だから、最善の配置をこそ求められるべきであり、ということは、聴こえやすい配置を追究しなければならないのである。オーディオで語る時、左スピーカーに第一Vnとチェロ、右スピーカーにアルトと第二Vnこそ理想の配置なのである。モノラル録音を再生すると、自由なイメージが楽しめるので、ステレオ録音では、お相撲で云うと不知火型、両腕を広げて中心にチェロ、アルト、広げた両腕がヴァイオリンという配置で聴きたい。
アントニン・レオポルド・ドヴォルジャークの作曲は、ただ単に美しいだけではなく、黒人、ネイティヴ・アメリカンに対する彼の想いを受け止めることこそ音楽なのだろう。そのためには、理想とする配置で演奏されることこそ最上なのであり、生の音楽は、それが求められていることに気づけるかなのである・・・