千曲万来余話その569~「B氏三重協奏曲、フリッチャイ指揮ベルリンでの音楽家たち・・・ 」
ジャケット写真というもの、プレイバックして指揮者と独奏者たちの会話を類推するに、記録の完全性に関わるであろうと思われる。ここでは指揮者個人ではなくて、音楽家たちの会話であることにより貴重な1カットとなるであろう。ピエール・フルニエ1906.6/24パリ~1986.1/8ジュネーブ没、ウォルフガング・シュナイダーハン1915.5/28~2002.5/18ウィーン生没、ゲーザ・アンダ1921.11/19ブダーぺスト~1976.6/14チューリヒ没、フェレンツ・フリッチャイ1914.8/9ブダペスト~1963.2/20バーゼル没、彼らは1960.5/30~6/1に、ベルリン放送交響楽団とセッション録音を完成。ドイツ・グラモフォンの名録音、金字塔を打ち立てている。
本年で生誕250年ベートーヴェンは作品56、1803~4年ロブコヴィツ侯爵に献呈したのは、英雄交響曲ならびに第4ピアノ協奏曲と同じ時期、傑作の森にある作品。よく地味、陳腐とか見下されている作品なのであるけれど、コンチェルトグロッソ合奏協奏曲というバロック時代の様式を体現してルドルフ大公のピアノを想定して作曲されている。ベートーヴェンの弟子でありつつパトロン的存在?のために作曲という設定は、英雄交響曲の意欲作の後に、平明な作曲技法による管弦楽法でありB氏らしさの刻印された楽曲であろう。
ステレオテイク・モノラル盤であり、指揮者の背後に独奏者たちを配置した合奏、指揮者は背中でソリスト達の演奏を聴きながら、前面の管弦楽団を統率するという、指揮者冥利に尽きる音楽、充実感はジャケット写真の意味するところである。敢えて、ピアニストは背中でVnとチェロの合奏に合わせるのが自然であろう。だから、リスナーにとって舞台上手にピアノ、指揮者左手側に弦楽奏者を配置すると理想である。フリッチャイ指揮のステレオ録音は、多数がVn左スピーカー側で右側にはチェロ・コントラバスを配置させている。これは、ステレオ録音初期の典型なのである。バーンスタインやオーマンディ指揮のものなどは、指揮者の右手側にチェロ・コントラバスを配置させる。ところが現代ではピリオド楽器の時代が復興して、その後に古典的配置、Vnダブルウイング両翼配置が復活している。指揮者のなかには、ブレないように、かたくなに舞台左手側に第1と第2Vnを揃える多数派がいるのだが、作曲者時代の両翼配置は、現代の演奏者に超えるべきハードルとして要請される時代と云えるだろう。すなわち、フリッチャイの音楽を、根底として楽器配置は現在バレンボイムやズービン・メータらの判断こそ、賢明といえる。
ヴァイオリンとチェロのアンサンブルでは指揮者左手側の音楽なのであり、アルト、第2Vnの音楽はピアノとうまくアンサンブル出来るだろう。指揮者が「音」にだけこだわり、第1、第2のVnを揃える時代は、すでに古い時代のものとなっている。時代はうねるがごとく変容しているものであり、かたくななスタイル固辞は克服すべき判断なのだろう。
フリッチャイは、この録音の3年を経ずして他界、歴史の非情を痛感させられる。ただ、第九名録音の後2年後の記録であり、その勢いに預かるのはささやかな慶びである。名演奏家達による自由闊達なレコーディングこそ、何ものにも代えられない宝物である。フリッチャイ芸術こそ不滅の記録といえよう・・・