千曲万来余話その568~「ブラームス交響曲第1番、ウィーン・フィル名演の系譜・・・ 」
秋の夕暮れは、つるべ落としといわれる如く時間の過行くさまが急でいつの間にか夜の帳が下りている。東から南にかけて赤い火星がのぼり、西の空には土星と木星が三日月と接近している。札幌市に近い手稲山頂では、先週に降雪が見られた。秋の深まりは一気に進んでいる。
秋に相応しい作曲家というと、ヨハネス・ブラームス1833.5/7ハンブルク生まれ~1897.4/3ウィーン没。坂本龍馬は1836.1/3高知生れ1867.12/10京都没だから徳川幕府末期の時代である。1862年の秋にはウィーンへと進出、68年にはドイツ語によるレクイエム作品45を成功して名の売れた作曲家となる。1871年のクリスマスにはカールスガッセ4番地のアパートに気に入った部屋を見つけ、終生をこの住居にとどめることにした。この頃に彼は失恋していてアルト・ラプソディー作品53に心情は吐露されている。
ハンブルクに住んでいた父親の死は1872年2月のこと、1873年5月には作品56のa管弦楽用とb二台のピアノ用、ハイドンの主題による変奏曲を発表している。これまでに彼は管弦楽の音楽を、セレナード2曲、ピアノ協奏曲第1番と作曲しているのだが、交響曲第1番は1855~76で作曲、11/4カールスルーエの宮廷歌劇場で初演された。ブラームスはおよそ20年の歳月を温めて完成させている。云えることは、交響曲に対する作曲家のプライド矜持、104曲余り作曲したハイドンとは一線を画して、ベートーヴェンが創作した9曲、彼はある種の理想を見通しているのだろう。先達のB氏は30歳で世に問い、ブラームスは43歳で決断している。
作品68でハ短調交響曲というのは、B氏が作品67だったという事実と、微妙な相関関係があると考えられる。すなわち、B氏の四つの連打音、ブラームスの開始部分で、序奏の後に執拗に鳴らされていることから、彼はベートーヴェンの67に続く68で発表したということの想像がつく。それくらい、考えに考え尽された交響曲なのだと思う。第1番ハ短調、第2番ニ長調、第3番ヘ長調、第4番ホ短調という主音を繋げると、ドーレーファーミというモーツァルト第41番交響曲ジュピターの第4楽章に現われるモチーフ、偶然の結果、そうとも言えないところがブラームス愛の問われるところである。
第2楽章は緩徐楽章で、明らかにロマン派の極みである。コンサートマスターの独奏が設定されている。なんと、対話する相手は、ホルンの独奏、だから座席としてアイコンタクトの可能な指揮者の右手前方、舞台上手配置は自然なことなのだろう。ウィーン・フィルハーモニーのディスクでは、フルトヴェングラー指揮1952年、カラヤン指揮1959年のものが有名で、それ以後はラファエル・クーベリック、ズービン・メータ、ジョン・バルビローリ、カール・ベーム、クラウディオ・アバド、レナード・バーンスタインなど、名演奏がズラリと記録されている。
レコードに表記されているものでたとえば、カラヤンのものはウィリー・ボスコフスキーが演奏している。1956年10月デッカ録音でヨゼフ・クリップス1902.4/8ウィーン生~1974.10/13ジュネーブ没の指揮したものは、聴いていてボスコフスキー1909~91の浪漫的な演奏スタイルとは少し味わいが異なる。どちらかというと古典的スタイルで節度あるヴィヴラートに、気品ある音楽を味わうことができる。当時のコンサートマスターでは、ワルター・バリリ1921年生まれが演奏している想像を許されることだろう。クレジット表記は無いので、違うのかもしれないけれど、そんな雰囲気はある。
音を聞くのは、音楽を味わう必要条件であり、十分な条件は音楽を味わうところにある。すなわち、耳の外で音は鳴っていても、頭の中では音楽が鳴っている。鑑賞するべきは音楽であって、その想像の世界は宇宙といえる。その限りでブラームスは演奏されているとき、生きているのだろう・・・