千曲万来余話その566~「ブルックナー交響曲第8番、チェリビダッケ指揮ライヴ録音・・・ 」

 LPレコードを考えた時、そのあり方として基本情報、何時どこで誰がというクレジットをどのように対処するかということがある。商品だから音楽鑑賞するアイテムとして付帯情報を提供しないという考え方があれば、1950年代のドイツ・グラモフォン、アルヒーフ盤などは録音年月日、場所、使用楽器、使用楽譜、事細かくなおかつ正確な情報をカードとしてレコードに添付していた。そのポリシーにいたく感動したものである。
 レコードのあり方は、多様であってひと通りの条件で成り立つものでもない。1980年に日本コロンビアは、不滅の名演奏家1500シリーズその3としてセルジェ・チェリビダッケ指揮・管弦楽団というクレジット、ブルックナーの交響曲第8番ハ短調というレコードをリリースしている。録音年月日、場所、管弦楽団名など不詳としていた。チェリビダッケ1912.6/28(現行暦7/11)ルーマニア・ローマン生まれ~1996.8/14パリ没、彼は1936年にベルリンへ移住し音楽院や大学で研さん、1945年8/29にベルリン・フィルの指揮台に登場している。23日に指揮者レオ・ボルヒャルトが米兵による誤射で死去により急遽招かれることになる。45/46年のシーズンに108回の演奏会をこなすことになる。当時、フルトヴェングラーは非ナチ化裁判の最中であり、復帰するまでティタニア・パラストなどでの演奏会に白羽の矢が立ったといえる。この経歴は、ベルリン・フィルという歴史ある楽団を経営するという貴重な経験であって、その中で彼の芸風は確立されたことに間違いはないだろう。F氏は1947年に裁判を経てベルリンに復帰して、1954年F氏没して後任にカラヤンが就任するとともに、チェリは退くことになる。その事情は、指揮と商業ベースの関係性にある。カラヤンの路線とは別に、音楽を時間の芸術としてとらえるチェリは、録音を認めない、いわゆる実演至上主義の路線を突き進むことになる。生前、彼がリリースしたレコードは、プロコフィエフの古典交響曲、イダ・ヘンデルとのブラームス・Vn協奏曲、自作曲の3種類のみ。ただし、彼はオーケストラが録音したソースにより、死後、多数のCDが販売されることになっていった。
 日本の音楽ファンに知られるようになったのは、1970年頃の読売日本交響楽団との定期公演登場になる。ロンドン交響楽団との来日公演ライヴ放送を盤友人はリアルタイムで鑑賞している。異常な緊張感で、ムソルグスキー=ラヴェル編曲、展覧会の絵など、あのロンドン響の首席トランペット奏者が最初にミスしたことを鮮明に記憶している。
 当時NHK-FM放送により、シュトゥットゥガルト放送交響楽団の演奏は、よく流されていたので多分、団塊の世代のリスナー諸氏は貴重な経験を積まれていたことと思わる。そんな中で、チェリのレコードが、カナダ・ロココ原盤により市中にリリースされた。管弦楽団とは、いったい、どこのオーケストラなのか疑問は、謎のまま時間は経過した。1996年音楽之友社刊になる伝記本、井口優子、カールステン、斉藤純一郎訳のクラウス・ウムバッハ伝記的ルポルタージュが出版されている。その中に1976年グラーツ演奏会、ブルックナー交響曲第8番、シュトゥットゥガルト放送交響楽団という記述を目にした。レコードを再生すると、弦楽器の分厚い響き、金管楽器の重厚なアンサンブル、木管楽器の緻密な演奏、そしてティンパニーのよく鳴る叩きぶりなど、総合的、俯瞰的に判断すると伝記本の記述と日本コロンビアのレコードの関連性が腑に落ちたといえる。
 1976年はチェリビダッケがシュトゥットゥガルト放送交響楽団音楽監督就任の年であり、このクレジット未表記のレコードの実体と強い関連性を認識するに、充分な情報は揃ったと云えるだろう・・・