千曲万来余話その551~「モーツァルト交響曲ジュピター、指揮者によるはたらきかけ・・・・・・」
魔法の言葉というものがある。アキレスは先に歩き出した亀を追い抜くことはできない、というもの。動の否定、アキレスは足が速いわけでなくても亀より速く歩くことはできるのだが、時間を考えるとき先に歩き出すことにより時間は規定される。だから、亀は先に歩き出すと時間があることにより、アキレスが歩き始める間、亀は歩いていることにより、永久に追い抜かれることは無い、アキレスは亀に近づく、その間歩いているから・・・あれえ、アキレスは足が速いでしょう、なのに、時間があることにより、亀は先に歩いているという訳である、だから、アキレスが先に歩き出した亀を追い抜くことはできない。
少しまともに考えることにより、時間というものは説明する時にやっかいなものなのである。たとえば指揮者というものは、何をしているのか?手を振っているから、ああ、指揮者は指示を出している人なのかとという風に考えて納得しているのだが、それでは、誰が指揮をしてもオーケストラを指揮することで音楽は同じなのだろうか?分かりやすく考えるとき、女性がピアノを弾いて出す音と、男性が弾いて出す音、猫が鍵盤の上を歩いて出す音、音は全て同じ音でも、つまり、ドとレだけの時、ドレと云う音は同じ音だ、だから女性が弾いても、男性が弾いても、猫が歩いても、音に違いは無い、と断言する人は笑われる。笑われた人は、真顔で、ピアノの音に違いを聞き分けることはできないと頑張るだろう。すなわち、その人は真剣に猫の音と女の音と男の音に違いは無いと言い続けることだろう。笑止千万、噴飯ものというのは、音楽の本質なのである。ピアノの音と、音楽は月とスッポンほどの違いがある。北京と月はどちらが遠いか? 月か北京か、見えるのは月だから北京の方が遠いと言うと笑われるのと同じことなのだ。
クラシック音楽の鑑賞でレコードを再生する時、美しいと感動する瞬間を経験する。その経験は、簡単に忘れることのないということを知っている人は、音楽愛好家といえる。盤友人にもその経験はあり、ジュピター交響曲の第2楽章アンダンテ・カンタービレ歩くような速さで歌うようにの開始早々、弦楽器のほれぼれする美しさに耳を奪われて、その時の感動が忘れられずにそのLPレコードを手放すことが出来ず、今までに幾度となく鑑賞している。プレーヤー、アンプ、スピーカー、そしてLPレコードを再生できる電気があることにより、鑑賞することが出来る。ウィーン交響楽団、指揮者フェレンツ・フリッチャイ、1961年3.12/13(3ヶ月ほど前に彼はクララ・ハスキルの訃報を受け取っている)ムズィークフェラインザール、ウィーン録音。弦楽器がゆるやかに演奏して、弱音を奏でるアンサンブルを、精密に合奏する指示を出すのが指揮者の仕事であり、ドイツ・グラモフォンの録音クルー、スタッフは見事にその哀しいまでの美しさをレコードに刻むことに成功して、それを再生する鑑賞者、オーディオファンは愉悦を経験することが出来る。そこで、盤友人の満月夜にスピーカーから流れ出す再生音は、フカフカの豊かな音響、楽しい音で確実である。この次の満月は 7月5日である。このサイト読者にとっては盤友人の発信を検証することのできる機会であり、どのような感想を持たれることだろう。
無意味な発信か、否かはサイト読者が判断できる話。
よろしくお願いするまでもない。皆さんがどのようにリアクションするか、盤友人の愉しみはそこにある。
後ろから指揮者の姿を鑑賞するのではなくてその先にある指揮者の芸術を再生するのが、オーディオ愛好家ディレッタントの取り組む課題なのであろう。フリッチャイは手を振るのみならず、演奏者たち最良の音楽を引き出す魔法の存在、その美を引き出すオーディオこそ永遠の悦びであり、アキレスが亀を追い抜けない理由も理解できて、今夜もレコードに針を・・・