千曲万来余話その549~「プロコフィエフ交響曲第5番作品100、正しい情報と正確な知識で・・・」
安心安全は、正しい情報と正確な知識に基づいた判断により構築される。プロコフィフの伝記に目を通していると彼の偉大な音楽は、ピアノの技術の上に音楽的環境としてオペラに接していて、経験として歌劇やバレエの世界が青春時代身近な音楽的環境であったことが理解できる。例えば最初の作曲はピアノ曲、インドのギャロップ、5歳の時でブルックナーの没年のこと1896年。生まれは1891.4/23ウクライナのソンツォフカ(没年は1953.3/5)、母の影響により手ほどきは3歳からで歴史は始まる。7歳で四手ピアノのための行進曲を書いている。ということは早熟の天才的才能の開花をすでに成し遂げられたという話だろう。歴史の刻印は正しい知識でといえることと、無くても済む話ということでもあるまい。
ベートーヴェン1770ボン~1827ウィーンはというと、5歳で父親からピアノの手ほどきを受けている。といってもグランドピアノなどという原型はフランツ・リスト1811生~1886没の頃で、B氏のワルトシュタイン奏鳴曲1804年の完成は音域の拡大ともいえる最高音の使用とか改革が工夫されていて、リストの奏鳴曲ロ短調1853年作曲へと歴史は連なっている。
矢の話で、飛んでいる矢は止まっているというのが有名だ。動の否定、なんのことはない、飛んでいるけれど動いているのではないと言うまでだから驚く話でもないだろう。たとえば、盤友人の話には数字が頻繁に打ち出されていて、読みにくい事この上ないと思われている向きもあろう。盤友人の意志は、正確な知識を問うているまでで、歴史に裏打ちされたエヴィデンス証拠を求めている。だから面白い話として、顔が白い犬が居ました、尾も白いポチという名前で・・・という面白い話の他に発信として彼は1954年生まれでとか数字を用いることにより具体性を発揮することになる。ベートーヴェンは交響曲9曲、といっても番号付きということで、B氏には番号無しのウエリントンの勝利という交響曲1813年初演もある。プロコフィエフは交響曲第7番青春1952年完成というものが最後になっている。盤友人は1944年作曲になる第5番変ロ長調作品100を札幌交響楽団第268回定期演奏会1986年3月14日に札幌厚生年金会館で鑑賞している。1951年ソルトレイクシティーUSAでは、ソヴィエト作品ということから上演妨害事件を起こされているいわくつきの作品で、さしたるアジテイションの含まれた作品ではない四楽章構成の対ナチスドイツ戦勝利祈念の交響曲。
メンデルスゾーン1809生~1847没は第5番交響曲として、宗教改革を作曲している。1832年11月15日ベルリンにて作曲者自身の指揮により初演。コントラファゴットやセルバンという低音管楽器の補強がなされているのは興味深い。
ロシアとドイツというパラレル平行な関係は、たとえば変ロ長調B-dur作品100というプロコフィエフの業績はベートーヴェンの第5交響曲ハ短調c-moll作品67と関係性は薄いのだけれど・・・B氏の徹底ぶりというと、曲の終結はドCの音一つだけというもので、プロコフィエフは第5番1945年1月モスクワ音楽院初演、指揮作曲者自身で作品100という数字を刻印しているという事実しか発信することはできないのであるけれども、読者のみなさまには、盤友人深読みの世界を想像して頂けるほかはない。平たくいうとP氏はB氏に百点満点、100%という評価を与えたというまでである。ゲンナディ・ロジェストヴェンスキー指揮モスクワ放送交響楽団のLPレコード。ロシア人の感覚はダイナミックス・レンジの幅広さ、ということはffffの強調とppppppという両方の認識の上に成立する。録音の限界はオーディオによる想像上での話で、その音楽のために、というのが盤友人の発信だろう…fine