千曲万来余話その539~「ピアノソナタ11番、C・アラウによる熱と敬意と音楽と・・・」
ベートーヴェンは、自らピアノ演奏による即興を、いかに楽譜にするかという作曲に取り組み、生涯で32曲の番号付奏鳴曲ソナタを残している。父に習い始めたのは5歳。初の独奏会は1778年3月26日ケルンでのこと。1781年10歳でネーフェに師事してピアノ、和声や作曲の勉強を始めた。ソナタのほかの独奏曲として変奏曲やバガテル、作品番号以前の小品など多数ある。作品2の3曲は1795年頃ハイドンに献呈され、第11番変ロ長調作品22は、1800年頃作曲で中期への過渡期の創作になるといえる。
ソナタ形式は提示部第一と第二主題、展開部、再現部、終結部という形式による。この形式観は、交響曲、協奏曲、弦楽四重奏曲などB氏の音楽の根底を形成して、ハイドンやモーツァルトという先人による業績の歴史にある。中国の唐詩7~8世紀の時代では絶句、律詩などに起承転結があることと、相似しているだろう。この形式により、作曲というキャンバスを入手したのだ、ベートーヴェンは。
クラウディオ・アラウ1903.2/6チリのチャーン生まれ~1991.6/9オーストリア、ミュルツシュラーク没は10歳で国費留学生としてベルリンに学ぶ。シュテルン音楽院でリスト門下のマルティン・クラウゼに師事、彼はエドウィン・フィッシャーの恩師でもある。1918年に亡くなるが、4年前にはアラウはベルリンでリサイタルを開いて成功を収めている。1927年コンクールで優勝、ニキッシュやフルトヴェングラーとも共演を果たしているという。戦後、最も正統的なドイツ音楽の継承者という評価を確立している。もちろん、シューベルト、ショパン、シューマン、ブラームス、トビュッスィなど多数のLPをリリースしていて、フィリップス録音が多数を占めている。
盤友人のピアノの手ほどきを受けた高校での先生は、アラウの弾くブラームスのピアノ協奏曲第1番を聴き、その音色の温かさを絶賛していた。ピアノの音色はかくあれ!という印象を与えるピアニストであったのであろう。彼女の師匠は豊増昇先生で、共通するタッチのイメージは、小学生の時からのレッスンで一貫していた。ピアノフォルテという楽器は、基本、たっぷりと豊かに鳴らすのが基本で、そのタッチ作りからというのが、基本姿勢だった。
3月といえども、室内は暖房を必要とする札幌、オーディオでも熱意が必要である。電源スイッチを入れるときの室温は12度くらい、昇圧トランスは冷えている。レコードを再生しても、つまらない音にしか聞こえない。この音を良しとするようでは、初心者のレベル、つないで音が出るというのと、レコードを味わうというのは、次元が異なる。だから盤友人は、昇圧トランスをセットから外して、ストーブのそばで温める。10分程度で充分、指でさわって温かい人肌程度が良い加減だ。ここで余談をひとつ、昨年頂いた鳥取産の銘酒「鷹勇」、燗酒ぬるかんで辛口最高の味わい、下戸の私でも腰を抜かすきりりとした味だ。
レコードの再生でどういう違いが出るのかというと、打鍵タッチで、芯のある伸びやかな音が命である。ここまで表現を再生出来てこそ、鑑賞に腰が入るというものだ。アラウは、深い打鍵と、強弱で自由自在の表現は千変万化、それこそ名技性ヴィルティオーゾを遺憾なく発揮した演奏の生命が再生される。
昨夜、50年前東大駒場900番講堂のドキュメンタリー映画を観た。観映後一時間は、主人公の生命力に、熱情を共有できた。盤友人は高校三年生で彼の短編小説を多数読破していて経験はある青春だった。彼の悲劇は美的ファナティズムであって、上昇する下降と評された彼の人生を、拒否する。彼にとってベートーヴェンは、いかに聞こえていたものか・・・知るよしもがな