千曲万来余話その531~「交響曲第7番イ長調フルトヴェングラー指揮、演奏解釈の様々・・・」

 フルトヴェングラー指揮1943年10月31日ベルリン・フィルハーモニーによる実況録音と1950年1月18~19日ウィーン・フィルハーモニー、ムズィークフェラインザール録音を比較して聴く。だいたいの構造は、テンポ設定などそれほどの相違はなく第3楽章プレスト急速に、など意外なことに1951年NBC交響楽団を指揮したトスカニーニのプレスト解釈と相通じるものがある。両者による相違はトリオの部分アッサイ・メノ・プレストのアッサイ充分にの解釈である。トスカニーニは基本、プレスト急速にを維持してメノ少し遅くを生かす設定、すなわち、テンポ減速を余り変更させないもの。古典主義的な解釈といえる。ところが、フルトヴェングラーは違っていて、アッサイ・メノ充分に減速してということで、ロマン主義的な解釈すなわち彫りの深い変更を実現する。ここでトスカニーニとフルトヴェグラーは、アポロンとディオニソスほどの違いがある。
 43年ライヴ、ベルリン・フィル指揮したものも、アッサイ充分にメノ減速させたプレストということで実況演奏ならではの効果がある。これがオットー・クレンペラー指揮した1956年録音フィルハーモニア管弦楽団演奏のものは、プレスト自体がすでに、設定は緩やかな表情のもので、アッサイ・メノも更に減速させるから、クレンペラーのものは、重量級のベートーヴェンという印象が強烈である。
 盤友人は学生時代からグリークラブで男声合唱に親しむグリーメン、参加して47年ほどの経歴である。今やOBとしての集まりで歌うのだが、昨年の暮れに意外な経験をした。自分はセカンドテナーでもって、トップテナーの隣で音程を合わせるタイプの声部、つまり第二Vnの位置で歌っていたのだが、指揮者先生、突然、前列に第一と第二テノール、後列にバスとバリトンパートという座席指定の変更を実現したのである。指揮者洋二先生は発声練習の時に、四声部の全員をバラバラに散らして、ハーモニーを作り上げる指導を実践されていて、スターズ・オブ・ザ(ダ)・サマーナイトという曲でやったのだった。それは多分、グリークラブ創立以来初めての事だろうと思われる。60 年近くの歴史が有り、トップ、セカンド、バリトン、バス横一列に慣れていたメンバーにとって、面食らう経験なのだろう。特に上(かみ)手端っこに居たバスなど、トップテナーの後ろに移動したため、慣れていた人には居心地おさまらないものなのだろうと思われる。ところが、セカンドテナーの盤友人にとっては、理想郷の居心地であった。俄然、ハーモニーを設定しやすい、テナー横一列であってその後ろに低声部が配置されることは、音程の下がり様がない安定した歌唱がなされる配置なのだ。
 フルトヴェングラー指揮のベルリン・フィルとウィーン・フィルの相違は、正に、その配置変更にある。43年は伝統型配置であったのが、50年録音では第一と第二Vnが多分、束ねられた配置なのだ。以前から盤友人が発信している、伝統型のVn両翼配置はモノーラル録音であっても明らかに、第一Vnの奥にチェロとコントラバスが配置されるために音楽は男性的といえて、上手側にアルト、第二Vnが座席するためにハーモニーの実体は堅牢で、透明感が高い。それは考えてみると当然といえば当然、舞台を横一列に四分割する配置と、二分割で前後に奥行きある配置とでは、演奏されるというか、聴こえ方は截然と異なる印象を与える。第二Vnの音楽が生殺与奪、活殺自在というものなのだ。
 フルトヴェングラーは1945年を境に、以後では、伝統が否定されてヴァイオリンを第一と第二を揃え、それが標準スタンダードとしてステレオ録音の時代へ突入したのである。ところが考えてみれば、左スピーカーにヴァイオリンが二重にされるより、左右のスピーカーで第一と第二が対比される方が、演奏のハードルは高いけれど、演奏効果は抜群と云えるまでである。現在Vnを束ねる配置は、すでに時代遅れなのであって、時代は伝統回帰の世界なので主流といえるのだろう。古いより、今や新しいといえる伝統型を切望する・・・