千曲万来余話その523~「モーツァルト、ピアノ協奏曲ハ長調第25番グルダ、グルダ、グルダ・・・」

 さすがだなあ、と思わされるのは選曲の仕方。フリードリヒ・グルダは第25番と第27番のピアノ協奏曲を一枚のLPレコードでリリースしている。1975年頃録音で指揮はアバード、ウィーン・フィルハーモニーのドイツ・グラモフォン盤。なぜ、26番と27番ではなくて25番と27番なのかなあ?という疑問が、購入したときからのものであった。26番は戴冠式というニックネイム付きのニ長調で1788年の作品、1790年のレオポルト二世即位の戴冠式で取り上げられたという由来による。
 くだくだしくいうものでもないけれど、作品の戴冠式は、平明な作風である。色々なことが言われていて、究極の説は、偽作説というもの。モーツァルトが一体このような音楽を作曲したのであろうか?ということで、分かり易くいうと真作ではなく疑問が拭えないピアノ協奏曲である。ケッヘル1800~1877というモーツァルト作品626曲を作品順であろう順番に整理した人物は、Kケッヘル番号537として戴冠式を位置付けている。彼は楽譜の記録を基に結論を下しているから信頼性は、多数の歴史家の認めているところ。権威の有るものとして通用している。だが、果たして唯一絶対のものとは断定できるものでもない。それは、K626レクイエムニ短調自体、ラクリモーサ涙の日の8小節目までが確認されていて、その続きは弟子たちにより作曲者の書き残したスケッチ帳による補作されたものという事実である。すなわち、真作か、偽作かは断定できるものでもないといえることだ。
 ライフワークとしての偉大な業績に対して、鵜呑みにすることなく、客観的な判断が必要な態度であろう。それは、戴冠式の作風に対する疑問ということだ。
 をではなく、でということは、コントラバスの旋律メロディーラインで検証することである。ひたすら、コントラバスの旋律に耳を傾けながら、右スピーカーの音楽を愉しむ時、自然に疑問が湧いてくる。この作曲はモーツァルトのものなのかなあ ? つまり、平明な作風は、作曲者が独奏者のために難易度の低い作品なのだからという説明が、よくされている。果たしてコントラバスの旋律まで平明ということは、あり得ないことである。どういうことかというと、平易な音楽は独奏部分だけで充分なはずなのに、コントラバスまで平易なのは何故なのだろう ? ということだ。モーツァルトの作曲法を語る時、多声部音楽ポリフォニーの真髄で、ヴァイオリンの次に外声部のコントラバスが呼応していなければ不自然と断定することができる。すなわち、第26番戴冠式はその一点でもって偽作という断定を下せるのである。
 見事な作曲というものは、ピアノと管楽器の対話とか、第一と第二Vnの対話とか、上向するVnと下降するコントラバスの旋律など、モーツァルトは天衣無縫である。
 流説にまどわされることなく、フリードリヒ・グルダは26番を除いて、25番と27番をセットにしてLPレコードをリリースした理由は、こういう類推を楽しいものにしてくれる。断定できることとして、グルダは26番をネグレクト除外したということである。
 会うことは、人の目を見て会話できることにあるのだから、スピーカーとも両目を見開いて音楽の会話を愉しもうと思っている。 刮目して生きることは、桜の花を、有る時に目に焼き付けて無い時分にこそ活き活きと情景を想像する世界、新古今和歌集でもって、見渡せば花も紅葉もなかりけり・・・秋の夕暮れと詠んだ定家の幽玄の世界なのだ。
  真作か偽作か ? は尽きせぬ議論の主題であろう。K503の25番ハ長調は真に、ポリフォニーの傑作であり、グルダはウィーン・フィルと愉悦の演奏を記録している・・・