千曲万来余話その522~「シェーンベルク、ピアノ協奏曲、どちらかというとグレン・グールドは・・・」
アーノルト・シェーンベルク1874.9/13ウィーン生まれ~1951.7/13ロスアンジェルス没は、新ウィーン楽派の泰斗、十二音技法ドデカフォニー音楽の創始者。1936年に作品36のVn協奏曲、1942年には作品42でピアノ協奏曲を創作している。
盤友人はミュンヘンでアルテピナコティーク、日曜日だったので無料観覧を経験している。圧倒されたのはルネッサンス期その細密な画風の宗教画で、その物語性や画面の迫力に強い印象を覚えていた。音楽でいうとバロックではあるが、ヨハン・セバスティアン・バッハの多数の傑作に近い感覚があった。具象画の絵画は、調性音楽というと正確ではないけれども、大体のところに近親性がある。美術史でいうところのセザンヌ、印象派が色彩と光の感覚に注意が向き始めたことは、カンディンスキー、表現主義の誕生という歴史の展開があるといえるだろう。
ウィーンでは、モーツァルトの音楽が市民革命と同時期に誕生していて、第一次大戦の頃、シェーンベルク(1941年USA市民権獲得)はコンテンポラリー音楽、いわゆる現代音楽、同時代の音楽を展開させている。なんのことはない、メロディー旋律線というものが自由自在に作曲されていたところに、点と線のメロディーという発展を始めたのである。
音と音楽は微妙に、イコールとはいえない。どういうことかというと、演奏することにより、躍動感が発揮されて音楽というダイナミックな芸術となる。もちろん、作曲と演奏という両方の行為の上に成立しているのだが、演奏者に対して鑑賞者がいてはじめて認識される。というか、演奏行為と鑑賞行為の両方の上に音楽は展開される。三要素というと、リズム、メロディー、ハーモニーということを教えられていたのだが、コンテンポラリーでは、音程、時間、音色という三要素に変貌している。すなわち伝統のメロディー旋律は、ただの線から「点と線」へと変化しているのだ。そのとき、鑑賞者は旋律線を期待していると、意外なことに、はぐらかされる感覚に陥りがちである。点も、メロディーラインのようにとらえると、シェーンベルクの意図は、鑑賞者に伝えられるというものである。
グレン・グールドは1961年にモーツァルトの協奏曲ハ短調K491とB面にシェーンベルクの協奏曲を録音している。オーケストラはCBC交響楽団、前者ワルター・ジュスキント、後者はロバート・クラフトが指揮を担当している。グールド1932.9/25トロント~1982.10/4同地没は、大好きなというより、どちらかというと、という言い方がふさわしい。大好きなピアニストというと、クララ・ハスキル・・・とかしっくりするのだが、どちらかというと好きという感覚は、彼の記録を鑑賞するに、理解という変換行為が必要とされるからである。無防備に鑑賞すると、彼の意図は伝わりにくいものがある。モーツァルトにしても、G氏は彼ならではのキャラクターを刻印していて単なるモーツァルティアンではない。それは、好き嫌いを分けるものであり、どちらかというと好きな方というのが正直なところである。シェーンベルクの協奏曲にしても、確固たる演奏は自信に溢れていて、見通しが良く、十二音音楽も聴きやすく工夫されている。租借されているのだから、グールドは通り一遍の演奏ではなくて、確信の伝わる記録となっている。静と動の対比は的確で、あたかも色彩と光の絵画を鑑賞している感覚である。メロディーを求めると失望するのだが、点と線の感覚によると鮮やかな印象を与えられて、グールドの演奏は素晴らしいと思う。
歴史は発展して展開を続けるから、ワンパターンも良いけれど受け止め方ひとつで万華鏡の世界も素晴らしくて、光の方へと導かれる・・・