千曲万来余話その509~「ショスタコーヴィチ交響曲第4番、札幌PMFの奇跡が東京そして川崎へ」
指揮者ゲルギエフが両手をゆっくり降ろすも、固唾をのむ聴衆は静寂を守り続け…盛大な拍手が鳴り止まない感動的幕切れとなった。ショスタコーヴィチ(1906~1975)、交響曲第4番ハ短調作品43は当時29歳だった作曲者が自己批判を拒絶することにより初演が1961年12月30日までかなわなかった、彼の作品のピークを成す畢生の音楽、演奏時間67分余りの大作でなかなか取り上げられることのない意欲的な交響曲である。第5番ニ短調作品47(1937年初演)という体制の意向に沿った社会主義的リアリズムを代表する交響曲と対照的な性格を持ち、第2楽章モデラート・コンモート中庸でなお動きをもってのお仕舞いは人生最後の第15番イ長調作品141の終幕とパーカッションによる同じ響きを刻印している。
この夜の演奏はコントラバス9挺チェロ11アルト13、第2Vn15、第1Vn17という弦5部、ハープ2台、フルート5、ピッコロ2、オーボエ4、イングリッシュホルン1、ファゴット4、コントラファゴット1、クラリネット5、小クラ1、バスクラ1、ホルン9、トランペット5、トロンボーン4、チューバ2、ティンパニー2対、パーカッション5人という118人ほどの編成、そして指揮者という壮観の舞台。キタラ大ホールは満席の聴衆であった。
楽曲初演年を調べるとレスピーギ、ローマの松は1924年、マーラーの第9とラヴェルの「ダフニスとクロエ」は同じく1912年、ドビュッスィ海は1905年、R・シュトラウスのアルプス交響曲は1915年、プロコフィエフの第4は1930年などなどの初演年で、ショスタコーヴィチの第4番は1936年に完成し、レニングラードで総リハーサルまでの初演直前に撤収している。
彼の交響曲第4番の特徴は、各部分にピッコロ、バスクラリネット、ファゴット、トロンボーン、トランペットのエピローグなど独奏がちりばめられていて、魅力にあふれる構成に工夫が凝らされた3楽章形式、歌劇「ムツェンスクのマクベス夫人」に対する1936年1月26日プラウダ批判がされた中で、初演に25年の年月を必要としたものである。
PMFオーケストラは、各パートに、シカゴ交響楽団、サンフランシスコ交響楽団、フィラデルフィア管弦楽団、クリーブランド管弦楽団、メトロポリタン歌劇場管弦楽団の首席奏者たちが配置され、コンサートマスターはデイヴィド・チャン氏で楽器をたっぷり鳴らしていて、精彩を放っていた。教授陣の存在感が圧倒的なドリームチーム編成オーケストラ、その統括者としてワレリー・ゲルギエフ第6代芸術監督が前日夜に到着して、ゲネラルプローベ1回で、仕上げたという奇跡のコンサートであり、ゲルギエフのカリスマ性は遺憾なく発揮されていたといえる。
当夜の開幕はドビュッスィ、牧神の午後への前奏曲。現代音楽の始まりは、このフルートの開放音で奏でられたといわれる名曲、アカデミー生だけの編成で、その優秀な音楽性は教授陣、ウィーン、ベルリン、アメリカの1か月に及ぶ指導の成果、その上での指揮者カリスマ相乗効果であったといえる。前半二曲目はジャック・イベール1890~1962のフルート協奏曲、独奏は2019チャイコフスキー国際音楽コンクール新設管楽器部門グランブリのマトヴェイ・デーミン、華麗で若々しい演奏スタイルは、躍動的だった。秋元克広札幌市長も聴衆の一人、札幌市行政のサポートもPMF30周年の大きなものだったのだろう。何より、バーンスタインの遺志貫徹が有り、総勢110人余りのアカデミー生、そして裏方マネージャーたち土台の上になりたっている教育国際音楽祭。キタラホールは、21時15分を過ぎても、万雷の拍手、はねた後もステージには教授陣とアカデミー生の交歓が続けられていて、余韻がやまなかった。この後には東京・赤坂サントリーホール、ミューザ川崎シンフォニーホールという連夜の演奏会が待ち受けていて、彼らの凱旋コンサートとなることだろう・・・LPジャケット写真は、ベルナルト・ハイティンク(2003年PMF参加者)指揮ロンドン・フィルハーモニック1978年録音。