千曲万来余話その502~「オーディオルームで、スピーカー設置するその考え方と実際・・・」

 知人のオーディオルームに招待されて、スピーカー設置の考え方、実験する機会を持った。 その人は普通にダウンロードや、LPレコードを聴いていた。そして、小型スピーカーをハの字にしてリスニングポイントを構えていた。
①スピーカーの設置は、一列が原則。ABチャンネルを並べて、中央空間を確保する。
②すなわち、ステレオ録音では、定位ローカリゼイションという感覚を実際に表現するために、中央の音の厚みを実現する必要がある。モノーラル録音では、二個のスピーカーの総体により、ひとまとまりの空間を表現するために中央空間を設定する必要がある。ということは、二つの間隔は開け過ぎず、狭すぎずにする調整が必要である。聴いて判断するので、じっくり耳を傾けることが必要。
③そのとき、ソースとして、音数、音の数として一つあるいは二つ、そして四つと少ないもので確認すると、割合に空間の実際を聞き分け易いのである。特に、チェロとピアノの時、チェロという楽器のボディ感覚と、ピアノの音の伸び方に判断するポイントは有る。ここで焦点を確立することにより、オーケストラものなど、自然に定位はプレゼンスするから不思議と云えば不思議である。管弦楽で焦点を判別しなくとも自然に成立する。
 スピーカー設置の実際は聞こえ方が、じっくり聴くことによりチェックする必要があり、原則として、スピーカーは空間が中央にあってその姿を消すことが最終目標となる。だから、ヘッドフォン的感覚ではなく、楽器空間、そのように発想することが原則だ。
 ひるがえって、ベートーヴェンの交響曲第5番運命の第1楽章テンポの設定は、思いっきりゆっくり演奏してみて、具体的に指摘すると346節目から始めて389小節目の全休止を確認すると、その不自然さが浮き彫りとなることだろう。間違いの「間」と云うことである。音楽としていかに不自然であるか指揮者、ならびに演奏者は実感することになる。いつも通りのテンポで繰り返されても、気が付かないということである。
 盤友人が44年前に出会った小節数は、提示部124、展開部123、再現部126、終結部128という総計で501小節。楽章の開始は、八分休符であることから、楽章最後の和音で500小節の音楽と云うことになる。作曲者の感覚としては、わざわざ、完全を目標にしているのだから、502という一小節分多いということに気が付くのは自然の成り行き、389小節目の全休止は、「音楽には間が大事」という感覚により、後付け理由で成立している。
 指摘しなければ気づかれないことなのだが、123と124小節目では全休止が二小節分確保されている。ベートーヴェンは実際に「間」は確保しているのであり、「389」節目の全休止をしない演奏として、ニキッシュ、山田耕筰、パウル・クレツキらが指揮したものに、その「間」は設定されていない。ただし、クレツキ指揮するソースは、南西ドイツ放送交響楽団のものと、チェコ・フィルハーモニーの二種類があり、後者には「間」が有る。
 作曲家の諸井三郎氏は、昭和25年の解説では501小節でありながら、その翌年には、502小節の解説を残している。すなわち、諸井氏自身も501と502小節の数字は、2種類残していたことになる。どういうことかというと、現実389小節目の「間」という現実の全休止を否定しきれていなかった現実がある。「間」説が有力な時代で現実が優先されているのだ。124、123小節を足すと247というのは、第2楽章の数字と一致して、126小節を足すと、373小節それは第3楽章の小節数と一致することなどから、それを根拠として、数字の完全性を前提として、かの「間」を間違いだと断定することになる。
 現実の楽譜を否定することは、有力な理由が認識共有されることなく実現できず、不可能なのは現実なのだが、その存在理由を認識することは、必要なのだろう。盤友人として、44年間、確信がゆらいだことは無く、ブライトコップ版楽譜に疑問を提出するだけである。
 オーディオライフは、そのためのものに過ぎない・・・・・中国大陸、朝鮮半島、日本列島、そこに生活するのは、等しく「人間」がいるだけなのだろう。ベートーヴェンも同じく「人間」である。