千曲万来余話その494~「バッハ無伴奏Vnソナタ第二番、負けるが勝ちJ.マルツィ・・・」

  ヨハンナ・マルツィ1924.10/26ティミショアラ~1979.8/13チューリヒは、英国コロンビアの33CXナンバーでバッハの無伴奏全曲を記録している。現在相場価格、120万円はくだらないという代物、ミソスの復刻盤も一枚福沢諭吉さん分相当だから、簡単に手の出るレコードとは言いかねるもの。果たして、その価値を再生できるシステムにまで高めることが出来るように到達した。
  レコードの価格と云うものは、音盤に込められている情報を、最大限に再生することにより、報われるというものである。だから、レコードを購入した段階では、明らかに、ミソスの音源はその価値を発揮できるものでは非ずに干からびた復刻盤の段階だったのだ。
  メインアンプの出力管を五極管から三極管のPX4というオールド球システムに変更したり、その上で、ラインコードをN社、B社、T社のものから、ゴッサム社製品に統一したり、というグレードアップを経過している。
 一番、変化のシステム向上がはかられたのは、音盤の基本音に比較して倍音のバランスが飛躍して再生されて、馥郁とした再生音を獲得できたことにある。マルツィの演奏で云うと第二番ソナタイ短調BWV1003の開始、第一楽章グラーベ、その始めの複合音の音響は、見事に情報が詰まっているところを開放してくれることになる。すなわち、カルロ・ベルゴンツィというあだ名の楽器の胴鳴りが再生される歓びは、まさに、オーディオ道の醍醐味であろう。その音楽は、一貫して表板の振動感が再生されることに気が付く。彼女が何に気をつけているかが、伝わってくる再生音にグレードが向上しているのである。平たく云うと、ミソスのレコードから繊細なヴァイオリンの再生音が獲得できたのである。最初手こずっていた再生が、現段階ではミゾに刻まれた情報が充分に引き出すことが出来て、レコードに針をおろす歓びを体験することに相成ったという次第。マルツィが眉を寄せて脱力したポウイング、弓さばきが再生できる歓びは、何物にも代えがたいものがある。彼女は脱力していて、力の入れ方をコントロールしているのが如実に伝わってくる。
 盤友人は勤務を退職して、振り返ったとき、負けてはならない人生、負けん気、負けることはいやでありながらも、負け続けた人生だったような気がする。ところが、マルツィの演奏を再生していると彼女は、勝とうとしている精神状態は、どこにも感じられない、無心というか、負けるが勝ちといえるまで感じがするのである。2020東京オリムピックを来年に控えて、世の中の価値観は、勝て勝て勝て、負けられない! というもので溢れている。翻って、日本語には「負けるが勝ち」というものがある。これは、正反対の価値観に通じる世界である。負けていいのである、否、負けても価値がないのではあらず、負けるが勝ちと云う境地で救われる世界もあることに気が付いてこそ、必要な心構え、勝者と敗者は見かけの上だけであり、敗者でも無価値な存在ではあらず、価値はあることに気が付くことこそ必要な態度であることを、的確に表現した言葉ということである。あの時、勝つことが出来ず負けていて悔しかったことも、負けるが勝ちという言葉に気が付いてこそ救われていたのではあるまいか? という境地を、ヨハンナ・マルツィを聴いて、そう思われる。
 勝気にあふれた演奏の代表は、ヴァイオリンでいうと、ギスギスした技巧テクニックだけが気になる、倍音の抜けた再生音である。そういうレコードが溢れているのが実情である。裏板が鳴るし、その上で、表板の音響にも細心の注意が払われているものこそ、マルツィ、負けるが勝ちの演奏である。
 負けることは無意味で非らず、勝ちにこだわるこそ、解脱するべき境地なのではあるまいか ? 技巧の上に、倍音を聴かせる努力・・・