千曲万来余話その492~「モーツァルト、魔笛、ハイティンク指揮バイエルン放送交響楽団・・・」
令月、調和ビューティフル・ハーモニーと意味する「令和」が始まる。令室、令嬢、令息などなど、めでたきとかの熟語もある。時代の呼び名が交替する御代がわり、018レイワを足すと西暦の数字になるから分かり易い関係性がある。1+018=019だからこのダブル感覚をうまく利用するところにこれからの時代、生活があると思う。
モーツァルト1756~1791はジングシュピール歌芝居、「魔法の笛」を自身の指揮で1791年9/30ウィーン初演、その二か月余り後に死去している。悪者だと思われていたザラストロ、何やらツァラトゥストラに言葉は似ている、拝火教の主、実は人々の尊敬を受ける賢者だったという。王子タミーノは幾たびか試練を受けるのだが夜の女王は、タミーノに魔法の笛を与え、パパゲーノは銀の鈴を持ちお供する。十八歳だが老婆姿のパパゲーナ、パパゲーノがしかたなく永遠の愛を誓うと少女に変身して、すぐ消えてしまう。一方、タミーノに冷たくされ思い悩んでいたパミーナ姫は、三人の童子から真実を聞き、火と水の試練へ向かうタミーノの前に現れる。二人は魔法の笛の力により無事試練を乗り切って祝福の合唱に迎えられる。パパゲーノもパパゲーナに再会し、ば、ぱ、ば・・・と喜びを歌う。夜の女王はザラストロへの復讐を狙うのだが雷鳴と閃光に打ちのめされる。太陽の神殿の場面となりザラストロを讃える合唱が響くところで幕となる。
ベルナルト・ハイティンクは、1980年録音でステレオLPレコード3枚組を記録している。タミーノ役ジークフリート・イェルサレム、パパゲーノはウォルフガング・ブレンデル、パパゲーナはビリギッテ・リンダー、夜の女王はエディタ・グルベローヴァ、パミーナ姫はルチア・ポップ、ザラストロはローラント・ブラハト。
序曲を耳にすると、弦楽アンサンブルはVn両翼配置で下手にコントラバスがあるため、ホルンは上手に配置されている。舞台のオーケストラピットをイメージする時、ヴァイオリンが両袖に展開されるのは作曲者の意図に合致していて、聴いて実に愉快である。ところが、札幌のオペラでは第一と第二のヴァイオリンが下手に束ねられる配置でそこのところ、まったく、つまらないものにされている。観客は喝采の拍手を贈るため、指揮者はなんのためらいが無いのだけれど、ハイティンク指揮のレコードはそこのところ、しっかり両翼配置で記録されているのだからなんの不足も無いことになる。現実の指揮者たちは、ハードルが高いVnダブル・ウィングを避ける傾向が多数派である。
すなわち、過去のステレオ録音初期には、左スピーカーに高音域、右スピーカーには低音域というグラデーションを記録していることによる。ところが、定位ローカリゼーションというものを考えた時、舞台下手に低音域を配置するように三人のレディースもアルトが端に来て、中央にソプラノが・・・すなわち、指揮者の左手側に低音域が来ることになる。がっちりと、指揮者右手側にコントラバス配置と云う現代多数派の固定観念と異なるところに、ステレオ定位の感覚がヴァイオリン・ダブル・ウィング配置なのである。左にパパケーノというバリトン、右にタミーノというテノールがお互いに対話するステレオ録音は、現実にはなかなか演奏されない配置と云えるかもしれない。だから、第一と第二ヴァイオリンが対話し、あるいは、ユニゾン斉奏されるところにステレオ録音の醍醐味はある。
音楽と云うものは、配置と云う前提の上で、最高の演奏が展開したところに面白味はある。新しい時代こそ、その愉しみは可能性を秘めていると云えるのだろう・・・