千曲万来余話その489~「ヴィオッティVn協奏曲第23番ト長調、ローラ、美人的演奏家の系譜・・・」
クラシックで音楽の三要素とは、リズム、メロディー、ハーモニー(律動、旋律、和音)というもの。そのうち、ヴァイオリンによる旋律は、本当にうまくできている。小振りな楽器ながら高い音から中音域までそれこそ楽器自体を響かせて聴きものである。そして合奏となると、アルト=ヴィオラ、チェロ、コントラバスなどによる中音域から低音域に至る弦楽合奏は、和音という厚みある音楽の集大成であり、ハイドン、モーツァルトたちによる作曲は、現代にまで歴史的に発展した合奏体としてまことに立派なものを誇っている。さて、それでは、リズムとはどこにあるのか?というのは素朴な疑問である。オーケストラと云う言葉自体、舞台を意味するもの、管弦楽というと、打楽器が抜けていることになる。
ティンパニーという音程を表現可能な打楽器はオーケストラの要であり、リズムの直接的役割を担っている。ところが、イタリア人作曲家ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ1753~1824のヴァイオリン協奏曲第23番では、そのティンパニーが使用されていない。すなわち、リズムを担当する楽器は無いことに気が付く。ここが、ポピュラーやジャズの音楽にあるパーカッション打楽器の存在をいつも必要としないクラシック音楽との違いである。リズム楽器が無いのに合奏がなぜ可能なのかということになる。すなわち、指揮者の存在である。彼は、音を出さないで拍節を指示していることが大きな役割だからである。指揮者の大きな仕事の一つに、リズム律動を把握して、テンポ速度を指定する働きがある。演奏行為でテンポ感は合奏者の構成員が多ければ、それを体現する一人として、指揮者の存在は絶対のものがある。ジャズなどを想像したとき、ドラム奏者の存在は必要であり、時としてピアノがその役割を果たすことも多いのだが、クラシックには時として、ドラムセクションは必要としない音楽であるのは象徴的である。イタリアでは16世紀ころにはオペラが誕生しているのだが、リュリという作曲家の時代には、指揮者の役割が発生していたのは重要な事実である。日本音楽の雅楽、能楽、歌舞伎などでは、そういう役割の個人的存在を生み出さなかったのは、日本人社会を考察する時、そういう個人的役割の指揮者を生み出さなかった歴史で、西洋社会と日本を考察するに興味深い社会的課題である。いわば、キリストという個人を中心に据えるところは、管弦楽における指揮者の存在に似ている。日本では、合奏者の中にその存在は居ても、指揮者と云う存在はおいていないのである。
独奏者のいる協奏曲では、指揮者の存在は、音を出さない打楽器奏者役割を果たしながら、音楽全体の把握、統率、中心の存在なのである。実際、弦楽合奏のほかに、管楽器は二管編成でありながら、ヴィオッティではフルート、ファゴット、ホルンという意外に小編成なのてある。その開始はまるでモーツァルトのピアノ協奏曲の音楽を予想させるスタイルで、ああヴィオッティはヴィヴァルディからパガニーニへの中間で、橋渡しする存在になっていた。時代的にはハイドン、モーツァルトという古典主義の音楽と云える。ヴィヴァルディはバロック音楽の中心であり、パガニーニというロマ派音楽の丁度、中間的存在である。適度に独奏者の名技性を発揮しながらも、ロマン派程の展開は見せておらず、合奏者自体もその技術の発露を見せている。フルートがトリルを演奏する時、あたかも小鳥のさえずりの如く、晴れ渡った田園風景を経験する素朴な音楽になっている。
ローラ・ポベスコ1921.8/9クラヨーヴァ、ルーマニア生まれ~2003.9/4スパ、ベルギー没は、美貌の天才ヴァイオリニスト。エネスコ、ティボーの薫陶を受けている。1980年には初来日を果たしていて、親日家、ファンの方も多くいた。歌謡性豊か、楽器を充分に鳴らせる名人。ご主人はジャック・ジャンティでマルツィ、オークレールらの伴奏を受け持っていた。このレコード1980年録音でボベスコは、たっぷりと歌い、大輪の花を開かせ魅力横溢するLPとなっている。