千曲万来余話その487~「ベートーヴェン、チェロ奏鳴曲第1番、チェロを愛する人は・・・」
チェロという楽器は、通奏低音として主旋律に対する支える役目を担当する時代を経過している。室内楽では中低音域の音楽を奏でて、地面に近い感覚があり、聴く人に安定感を与える。いわば脇役的な面が主として果たしていたのだが、ヨハン・セヴァスティアン・バッハに至って無伴奏による組曲を作曲、独奏して主役に躍り出たようなものである。しかも、その楽譜、音楽に脚光を当てたのはパプロ・カザルス。音楽家として神様の存在であるアーティストに負うところが大きい。
ベートーヴェンは生涯で五曲のチェロ・ソナタを書いている。バッハの無伴奏組曲が旧約聖書にたとえられると、ベートーヴェンのものは新約聖書にたとえられるのはそういう事情による。1796年25歳の時、作品5の二曲のソナタが作曲初演されている。
第一番ヘ長調作品5-1、アダージォという雄渾な開始の音楽、つづけてピアノが主導するアレグロの第一主題が導かれる。楽器としてはピアノとチェロという二台の合奏であるのだけれども、音楽としては一大管弦楽の音楽が奏でられているかのような音楽になっている。中低音域の音楽は、オーケストラのボディであり、土台とも云える演奏は、たっぷりとして音に包まれる。楽器自体も、演奏者は抱えて演奏することにより身体全体で音楽を演奏するという、気宇壮大なことになる。
米ウエストミンスター1952年コピーライトのLPレコードは、チェロがアントニオ・ヤニグロ1918.1/21ミラノ~1980.5/1、ピアノはカルロ・ゼッキが担当している。ヤニグロはミラノ音楽院や、パリ・エコールノルマルのマスタークラスを卒業している。歌謡性たっぷりの演奏でなおかつ、厳しい気品がある。この感覚は当時のカザルスが打ち立てた、新即物主義的なところに近いものがある。楽器の演奏というものには、演奏者の人間性、特に品格、漂うものがある。例えば、1970年の大阪万国博覧会、NHK交響楽団とアレクシス・ワイセンベルクが独奏を受け持ったブラームスの第2番ピアノ協奏曲の第三楽章、独奏チェロが開始になる音楽で、その輝かしい音色に、記憶が焼き付けられた経験を持つ。指揮者岩城宏之でテレビの視聴だった。たいした装置の音ではなかったのだが、その音楽の強烈さは不滅の演奏であったといえる、首席チェロ奏者は徳永謙一郎だった。彼は若くして病を得、不帰の人となっている。当時彼の存在は伝説となり、N響を指揮したサヴァリッシュなどは、「徳永」を絶賛して絶大な信頼を表明していたものである。斉藤秀雄の門下生で、歴史に残るチェリストの一人。
宮沢賢治は、盛岡から東京に出かけたチェロの音楽を愛した早逝の天才である。彼の記念館には,愛奏した楽器が展示されていて間近に見ることができる。賢治は詩作、農業従事、教育者、チェロ演奏、作曲など、多面的な顔を持つ東北人の童話作家であった。彼はチェロを愛していたのである。
深い人間性とは、歌謡、思索、瞑想、祈り・・・多面的な顔を見せる神としての父親のような様相を見せるものである。一言でいうと、広い心というのは簡単であるけれど、エア、空気、旋律、澄み切った心は、宗教者の到達する高みにあるものと同じかもしれない。レコードという記録媒体はどのような音楽を再生するかで、生の音楽とは別格の世界なのである。
ヤニグロは、チェロ演奏から指揮者への転向を見せているけれど、彼のベートーヴェンを聴いていると、技巧を極めることにより、独奏者から指揮者へと転向した人生も、理解できないものでもない。ただ、チェロを演奏する孤高の芸術家にとどまることなく、その音楽の世界を求める楽しみこそ、レコード収集の醍醐味でありかなあ・・・