千曲万来余話その483~「ブラームス、チェロソナタ第1番ホ短調、ヘルシャーとイエルク・デムス」

 いつものライフスタイルは、自動車を運転して例えば二時間くらいかけて小樽へ行くことがある。ところが、最近JRを利用して列車に乗り、電車を利用することがあった。その時、座席にどのように座るか?考えることがあった。どういうことかというと、座席が窓側横一列のものと、リクライニングシートで、進行方向に向かって座るか、逆向きにするか可能な座り方の座席である。 昔は列車というと、ほとんどが四人対面型といって、自由に、進行方向向きか逆向きかを選択できたのが実際なのだった。だから、両方の座り方が普通だった。盤友人も還暦を超えてから、身体の不具合に敏感になり、二時間くらい車両に座り続けると、どういう座り方か疲れないかを考えるようになったのである。明らかに、進行方向に対して背を向けて座るのが重力の加わり方に、楽することができるように感じられる。まわりを見回すと、多数派は進行方向に向かい座っているもので、盤友人は少数派であることに気が付く。それは音楽鑑賞が、CDコンパクトディスクによるものか、LPレコードというアナログ趣味なのかという違いに似ているだろう。それは感覚の違いによるといえる。アナログ的再生にこそ、鑑賞の喜びは倍加するというものである。  1958年6月録音、ドイツ・グラモフォン盤ステレオ初期のものを聴いた。ルートヴィヒ・ヘルシャー1907生~96没がベルリン・フィル首席チェロ奏者歴任は多分1940~50年代頃なのだろうか?フルトヴェングラー時代なのだろう。彼以前にはピアティゴルスキーなど居たと思われる。その演奏スタイルは、近代的ともいえる即物的というか、スマートでヴィヴラートも抑制気味、しかし浪漫的でなおかつ生き生きとしている。オーケストラブレーヤーとして面目躍如、表現が過剰に走らないスタイルである。伸びやかで、朗々とした音色でいかにも内省的な演奏に仕上がっている。ブラームス、1865年6月仕上げられた作品でもともと4楽章形式のものが、アダージョ楽章が割愛され、第3楽章などその年2月2日の母の死が反映されているような哀しみの音楽である。
 ステレオ初期の録音で、左スピーカーからピアノ、右スピーカーにチェロが定位する。明快なもので、中央の音響でピアノとチェロの重なりを補うように再生するのが重要である。音量の設定に問題があるのは、左右が完全に分離して、中央が薄い感覚になる時である。シューベルトのピアノ五重奏曲鱒でもそうなのだが、グラモフォンのステレオ録音では、デムスのピアノは左スピーカー定位が普通になっている。ところが、盤友人は、正反対の感覚になっている。すなわち、ピアニストは独奏者に対して背中で音を合わせる、右側にセッティングされる方を考える。だから左側にチェロ、右側にピアノをイメージするのがいつものことである。
 残念ながら、こういう音楽はモノーラル録音にしか問題意識を薄める方法が無いものである。最近の演奏会は、ピアノトリオである場合、チェロはいつも、右側なのだが、チェロの音楽を考えた時、中央にシフトして、ピアノこそ右側で弦楽器に対して背中で音楽を合わせた方が、聴いている方としては、すっきり、弦がアンサンブルとピアノの合奏が楽しめるというもので、チェロがいつも客席から向かって右側というのは、不満がある。チェロの音の響きは、ピアノの音楽と被ることなく、ヴァイオリンと重なることには違和感が少ないのである。それでは、結線を左右逆にすると良いのかというとそういうことではなく不満と向き合いつつステレオ録音を再生している。生の音楽会に希望を託しているのだが、そうはいかないのが現実なのだなあ・・・