千曲万来余話その480~「シベリウス、Vn協奏曲ニ短調作品47、クーレンカンプ1943年2月録音」
1941年12月8日には太平洋戦争が始まり、その11日には独伊国が米国に宣戦している。第二次世界大戦である。1942.3/22、24にはブルーノ・キッテル合唱団創立40周年記念演奏会でフルトヴェングラー1886.1/25ベルリン~1954.11/30バーデンバーデン没はベルリン・フィルを指揮してベートーヴェンの第九を演奏、同じく4/19にはヒットラーの生誕祝賀前夜祭で第九を指揮している。この二つの第九の間に、テレフンケンによるブルックナー第七交響曲第二楽章アダージォのSP録音が実施されている。1943年に入ると戦況は刻々と悪化の一途をたどり、スターリングラードではドイツ軍がソ連に降伏、9月にはイタリアが連合国に対し降伏している。このようにドイツの敗色濃厚の中で、フルトヴェングラーは6/26エリザベート・アッカーマンと再婚している。
同年2/7(8)ベルリン、フィルハーモニー音楽堂でのライヴ録音、ゲオルグ・クーレンカンプ1898.1/23ブレーメン~1948.10/5チューリヒ没のヴァイオリン独奏で、シベリウス1865~1957の協奏曲ニ短調が演奏されている。この戦時下の演奏記録は、壮絶なものであり、極度に異様な燃焼感をもって残されている。いかに戦争という極限状況の中で芸術家は演奏するものなのか、このレコードは貴重であり、1903年ヘルシンキで初演されてから05年にはベルリン初演、シベリウス唯一のヴァイオリン協奏曲である。クーレンカンプは20世紀初頭ドイツ音楽界を代表する演奏家でヨーゼフ・ヨアヒム門下のエルンスト・ヴェンデルに師事している。ベルリン芸術大学を経て1916年ブレーメン・フィルのコンサート・マスターに就任、1919年からソリストとして活動に入った。1923年には母校の教授職に就任、同年~26、31~43年まで指導に関わっていた。一方、室内楽では、Pfエドウィン・フィッシャー、Vcエンリコ・マイナルディと三重奏を演奏していたことが知られている。クーレンカンプはナチス政権下、メンデルスゾーンの協奏曲を演奏するなどして、一定の距離感を持っていた。当時、アドルフ・ブッシュは反ナチスを表明してアメリカに去るなど、きわめて厳しい状況ではあったのである。協奏曲においてカデンツァでは、ヨアヒム、クライスラーなどユダヤ系の音楽を実演していたのである。1944.11/14に尊敬するカール・フレッシュが没すると、その後任としてルツェルン音楽院教授に就任、引き継いでいる。1948.9/22が彼の最期のスイス・リサイタル、13日後にチューリヒ、50歳の若さで永眠することになる。1937.11/25、そのころ発見されたシューマンの協奏曲ニ短調のドイツ初演をラジオ全国中継、レコーディングを果たしている。
フルトヴェングラーとの共演は35年にブラームス、39年にベートーヴェンの協奏曲を演奏していて、三度目の共演がシベリウスということになる。43年2月の演奏は、そのよう状況下で、精神性、緊張感の高い孤高の録音になっている。第三楽章にヒヤリとする場面もあるのだけれど、弱音演奏の時、ブレスする鼻息はオンマイクで生々しく、管弦楽のベルリン・フィルの演奏も、壮絶である。K氏の独奏は格調が有り、骨格が極めて大柄、歌謡性、ヴィヴラートも適度で過不足なく、下から上へあがるポルタメントも、時代を感じさせていて、しかも、くどいものではなく哀しみ表現として、極上である。英国ユニコーン盤もグッドコンディション、音楽の表情を隅々まで記録していて、力があるLPレコードといえる。
つくづく、大戦時の貴重な記録であり、悲惨な戦争の記憶として味わい、肝に銘じることの多い音楽ではないのだろうか・・・・・