千曲万来余話その470~「シューベルト作品120 D664、きれいは穢いきたないはキレイ・・・」

 マクベス、始め魔女の言葉にはギクリとさせられる。年の初めに、今年は良い年になりますように・・・があるけれど、禍福はあざなえる縄の如くというのが今までであるから、なんとかしのぎたいというのが、最近の願いである、良いだけというのは・・・
 年末恒例のNHKTVで第九を観た。ドイツ音楽の巨匠という触れ込み、聴いて失望を禁じ得なかった。第三楽章のテンポ、指揮振りはゆったりなのだが、奏でられる音楽は倍に速いテンポである。ああいう演奏をしてはいけないだろう。つまり、ああいうセッティングの行き着いた結果がそうなのだとしたら、さもありなん・・・こらえきれない設定であり、間が持たない、あの触れ込みは一体何だったのか?という感想。つまり、古いは新しい新しいは古い、こんな時代だからこそ音楽でベートーヴェンをじっくり感じたいものなのだ。
 ギルバート・シュヒター1919~89のRCA録音を聴いた。なんという快いテンポで演奏されているだろう。極めつけは、第三巻にあるソナタ第十三番イ長調というドイチュ番号664。第一楽章アレグロ・モデラート、快い中庸の速度で、このメロディーは愛らしい旋律で、いかにもフランツ・ペーター・シューベルト ! ペーターというのは、ペテロという名に近い、だから一途な青年のイメージである。女性ピアニストが演奏会で盛んに取り上げるこのごろ、さぞ男装の麗人というものなのだろうが、シュヒターはごく自然に弾いていて、なんの違和感もない、というはそうなのだけれど、本当にシューベルトの愉悦を味わえる。わたしはあなたが好き! という語り口に無理がない。ピュアな音楽は新春にふさわしい。
 たとえば、第二楽章アンダンテ歩くような速さで、という指定、この速度設定を深読みして、ゆっくり過ぎたり、はたまた、軽いものにしてはいけないだろう。つまり第三楽章はアレグロ軽快に、という速度感を聴き手に催させるのがツボだから、それを表現できるのが巨匠であろう。先の指揮者は時代のファッションからの設定なのだったろうが、それこそ失敗だったのは明らかだ。それくらい、テンポ設定というものは、生命線である。
 ピアノソナタ、奏鳴曲というのは、ソナーレというイタリア語の和訳で、器楽曲を指す。形式として、三楽章、四楽章、あるいはベートーヴェンのハ短調作品111ただの二楽章。ハイドンの歴史はベートーヴェンに受け継がれ、シューベルトは21曲? をものにしている。ちなみに、S氏には未完成交響曲がある。なんのことはない、二楽章で完成している。スケッチとして第三楽章は途中まで残されているけれども、作曲者は続けることなかった。シューベルト1797~1828の人生は、六百曲にも上る歌曲、これもすごいことだけれど、これのほとんどを録音したディートリヒ・フィッシャー=ディースカウも超人である。ピアノ作品集をシュヒターは録音しているのだけれど、ザルツブルグ録音、如何にもオーストリアという欧州の空気感が横溢している。
 ピアノというと、メーカーによって音色が異なる。中高音は、スタインウエイ、ベーゼンドルファーとも輝きあるもの、ところが、低音域を再生するとその音色の違いに驚かされる。さて、シュヒターは・・・楽しみは尽きることが無い。
 いい音いい音楽とは何か ? ピアノでいうと倍音再生に有る。最後の和音が鳴らされたとき、余韻が残る。演奏のさなかに、ピアノの弦はこの倍音を鳴らしているのである。ポピュラー音楽ではマイクを使用する。これだと倍音は鳴らされない。この味わいがクラシック音楽のキモであり、アナログ世界の目指すいい音、その音こそ音楽のため・・・なのである。