千曲万来余話その469~「ラヴェル、Vnソナタ1972年11/25録音マルツィによる美音・・・」
ヨハンナ・マルツィの使用する楽器は、1949年12月スイスで出会ったコレクターのダニエル・チューディから貸与された1733年製のカルロ・ベルゴンツィ、これが終生のものとなっている。
再生するとよく分かることなのだが、現在、耳にするヴァイオリンとは肌合いが異なる。すなわち、元々、ガット弦といって羊の腸が使用されていたのが、現在はスチール弦が多数派、LPレコードに記録された音に嫌な感じはない。ところが、デジタル録音されたものは、ほとんどが細身の音であり困ったものだ。これは、時代がそうさせるものなのであろう。
マルツィの美音には、空気感、肌触り、幸福感に満ちている。これこそアナログ録音の醍醐味、それを再生する愉悦がある。
このLPには1878年作曲になるブラームスの奏鳴曲と、1923~27年作曲のラヴェル作品が、スイス放送局提供の音源で収録されている。それは、ドイツ、フランスを代表する楽曲であり、ヨハンナ・マルツィとイシュトヴァン・ハイデュというハンガリー人音楽家による演奏である。よく人は、音楽が分からないと口にする。分かる分からないというのは、理性の判断によるのだが、音楽は感性の世界なので、分かる分からないではあらず、好きか嫌いかの好みの判断の方が、理解よりかは素直になれるはずである。だから、ブラームスとラヴェルという性格の異なる音楽をより良く味わえることになる。どちらかというと、B氏の音楽は楽曲の構造が伝統的、構成的であり理解がしやすいだろう。そこには、旋律メロディーが分かり易く、律動リズムが簡潔、規則的である。ところが、ラヴェル作品は一筋縄にはいかないのである。第二楽章はブルースである。ガーシュイン作曲パリのアメリカ人は1928年作になる。有名なエピソード、G氏がラヴェルに作曲のノウハウ伝授を希望した時、あなたは既に一流の作曲家、二流のラヴェルになる必要などどこにあるか?と答えたという。そんなエスプリをきかせるラヴェルがピッチカート開始でブルースを作曲しているのは興味深い。オーディオ的に云うと、ここのところで、楽器の胴鳴りを再生できるのがベストである。アルコといって、弓を使用する演奏との対比は、楽しいものがある。だいたい、ラヴェルのエピソードは、メロディーメーカーのガーシュインの素晴らしさを讃えるまでもなく、R氏の偉大さに親密度が昂じるというところが、心憎い話である。
今年最後の469話になった。サイトウォッチャーの諸姉諸兄には、心より感謝申し上げる次第。みなさまのご多幸を祈念して1年を振り返りたい。余話のテーマは、オーディオと音楽の関係にある。いい音、いい音楽は切っても切れない関係に有り、演奏する姿、作曲された世界を音楽でもって再生するところにキモはある。時間の芸術だからこそ、目的は音響にあらず、音楽に有る。だから、音に囚われていると、目的が分からなくなってしまう。すなわち、ノイズを除去するという発想ほど百害あって一利なし、除去するというのは明らかな誤りなのである。SN比というのは、両者相まっての上での話で、ゼロという発想こそ除去する必要がある。空気は炭酸ガス、酸素などなど、多様性のある話なのである。
異文化の出会いこそ両者尊重の上での話であって、一方が他者を排斥するという話ではない。ちなみに、いい音というのは、倍音再生に有る。倍音はノイズと表裏一体であり、このことに気づくか否かで、オーディオの世界は広がりを見せる。未来に向かうばかりではなく、古きを温めるというのは、古代中国の教えで、既にある話、過去にさかのぼることこそオーディオ向上ひとつの方向性であろう。感謝至極。良いお年をお迎えください、鶴亀ツルカメ・・・