千曲万来余話その467~「ヤーノシュ・フェレンチーク指揮ハンガリー国立管、年末と第九・・・」
ヤーノシュ・フェレンチーク指揮ハンガリー国立管、年末と第九・・・月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり・・・芭蕉の名文の通り、平成30年もやがて去り、31年が直にやって来る。年末に第九が演奏され、どうして年末に・・・という疑問が発せられる。興行として忠臣蔵が大入りになるように、第九もはずれが無い!とかなんとかの理屈よりも、音楽が年末に相応しいのも事実だ。人生を振り返ったB氏は、交響曲に声楽を取り入れて、メッセイジを発信する、おお友よ、このような調べではなく・・・歓びよ。フロインデ友とフロイデ歓喜という言葉発音の類似から始められる、第四楽章で、循環性として第一楽章から第二、第三の音楽が回想されるというパターンも実に明快である。
音楽の愉しみ方として、その要素にテンポは重要である。たとえば、リアルタイムでヘルベルト・フォン・カラヤン指揮したベルリン・フィル演奏がディジタル録音でリリースされた時、札幌の交響楽団でも同じテンポで演奏されて、盤友人はコーラスの中で唱っていた経験がある。第四楽章約24分位。そこまでの管弦楽部分は40分位。テンポと演奏時間の関係は一つの目安であって、イコールではないことに注意が必要。ただ相関関係はあるだろう。
カラヤンのような指揮者の仕事には、大きな影響力が働いていて、いわゆるエピゴーネンは、多くなる。そのような影響の働かない音楽の演奏にはすがすがしいものが多い。
ヤーノシュ・フェレンチーク1907.1/18ブダペスト生まれ~1984.6/12同地没は1930年代バイロイト音楽祭でトスカニーニ、ワルターのもとでさまざまな経験を積んでいる。第二次大戦後、ウィーン国立歌劇場で活躍した時期を経て、ハンガリー国立管弦楽団とベートーヴェン交響曲シリーズを録音している。すがすがしい演奏、とりわけ第九は淡々と進行して、決然とした解釈は、外連味のない職人肌の雰囲気がある。
映像で見ることのできるフルトヴェングラー1942年ヒットラー御前演奏会は、コーラスの配置、男声が中央でソプラノが下手側アルト上手側と展開されている。
それは、最近の札幌でも採用されているのだが、1960年代から90年SATBという女声ソプラノ、アルトと男声テノール、バスに分けられたものが多数派であった。それは高い、低いという感覚の選択によるものである。そのことにより強調されるのは、ソプラノとバスの外声部であり、内声のアルトとテノールは割と地味になる。ところが、フェレンチーク指揮した1974年録音演奏は、前列ソプラノとアルト、後列はテノールとバスというように、アルトがしっかり、右スピーカーから響いてくる。管弦楽が指揮者の右手側にチェロ、コントラバスが配置されているから、男声もバスは上手側に配置されている。
音楽的に云うとソプラノとバスは近い関係性があり、テノールとアルトは内声といって近いものがある。前列に女声、後列に男声という方が、作曲者の意図に緊密である。フーガの開始はアルト、テノールと進み、バスそしてソプラノという具合に解決する。これはヴァイオリン両翼配置と同じ考え方であり、和音ハーモニー四声部の配置として、黄金と云える。
終幕コーラスの結びが、ゲーテル・フンケン、ゲーテル、フン・ケンというお開きで、フェレンチークの指揮は素晴らしい解釈を披露している。こういうところが、職人技ともいうべき、なかなか、経験できないというか、LPレコードならではの経験となる。現実の演奏会で、どうして指揮者たちはそのように処理できないのか?
盤友人は配置にこだわっていて、サイトウォッチャー諸姉諸兄は疑問を持たれていることだろうけれども、配置と音楽とは密接な関係に有り、その音楽観により配置は決定されるからである。侮ることなかれ!