千曲万来余話その459~「ゴールトベルク変奏曲、G・グールド左利き論」
音楽の愉しみ方は、実際の演奏会、記録の再生と二通り。演奏会派はレコードなんて所詮缶詰でしょう?という感覚だろう。ところが盤友人などは、記録再生の目的が音楽のためにであって、それは一つの趣味の世界なのである。これには相当の投資によるものでも、投資することにより目的達成なのかというと、そうでもあらず試行錯誤それ自体が登山のようなもので目標をしっかり持つことこそブレてはならないことであろう。
グレン・グールド1932年9/25トロント出身~1982年10/4同地没は、1955年にバッハのゴールトベルク変奏曲を発表(CBS)している。同じ頃ウエストミンスターレーベルから、イエルク・デムスによるモノーラル録音LP盤がリリースされ、競合している。歴史を見渡すと、デムス盤を発売枚数上回ったのがグールド盤の方で、両者を比較すると微妙な事実が想像されて興味深い。
盤友人が最初に感じたことは、D氏の演奏を鑑賞すると、彼以前の伝統に則っていて、歴史をさかのぼる感覚が自然と湧いてくる。子供じみた評論によると伝統の範囲を逸脱しない、おとなしい仕上がりということになろう。ところが、G氏の演奏はさにあらず、はじけていて個性的、どこにも手本の無いグールドの宇宙がある。バッハの音楽というよりバッハを演奏する歓びの発露という世界なのである。
グールドはこれからどのような演奏を発表するのだろうか?という聴衆に対するツカミは充分であり、キャッチーな録音盤といえるだろう。だから、この演奏を缶詰だと一蹴するのは簡単、でも、このレコードを生の演奏のように再生するというオーディオの世界は深遠である。それこそ、オーディオ人の愉しみ、前頭葉を遺憾なく作用させることである。これは、モダンオーディオかヴィンテージ世界かを選択するリトマス試験紙になる。
G氏の演奏はスタインウエイによる、これは別にクレジットがあるからではないのだけれど、ピアノの音色からすると、という話。ちなみに、81年録音盤では使用楽器がヤマハということは周知の事実クレジット有り。ところがデムスの演奏ではベーゼンドルファーのようである、というのは、クレジットが無いからで、でもその様な印象を受けるのも事実である。ピアノの音色というと、低音域の倍音の音色から推して、その違いは認識される。だから言い方を換えると、その違いを再生できることこそオーディオの醍醐味なのである。A・コルトーやS・フランソワの稿で触れたことであるけれど、彼らの使用楽器はフランス製プレイエル、というのもあの黒光りする低音からそのように認識されるのだ。
D氏を聴いた後にG氏の演奏を再生すると、どこか違う印象を受ける。それは、左手の演奏から受ける印象の違いである。主題があって第一曲のあと、第二曲ですでに気づかされるのだが、音量でなく、表情が際立っているのである。彼は左利きなのではあるまいか?そう思わされる。盤友人の発信は、フェイクニュースかもしれないから、そのように受け取っても構わない。だがしかし、評論家の発信は、権威づけから割り引いても、そのように受け取る必要があろう。評論家の発信で注意すべきは、フェイクではないというスタンスから、独善、権威化に傾くきらいがあることである。事実、盤友人が高校生の時分、情報の源は「現代の演奏」という吉田秀和氏の評論。大御所である彼の評論は既に神格化されている。ところが、昭和58年に発表されているベートーヴェンのニキッシュSP盤の389小節目に全休止の無い事実には、終生彼は触れることが無かった。盤友人が彼の権威化に疑問を呈する一点である。
グールドが左利きだったというのは、本当だったら・・・?