千曲万来余話その457~「田園交響曲の一節、クーベリック指揮オーケストル・ドゥ・パリ」
♬ミファラソーファミレッソ、ドレミファミレー田園交響曲、主題の一節である。伝え聞くところによると、ウィーンに飛来しているアフリカ産の渡り鳥の鳴き声であるとのこと、ファゴットで演奏されると、さもありなんと思われるから不思議だ。田舎についた時の愉快な気分というのは第一楽章に付けられた作曲者による一文。ベートーヴェンの残した九曲の交響曲唯一の標題で、1808年12月に第五交響曲と共にウィーン初演された。第六交響曲ヘ長調、作品68。ブラームスは作品68で第一交響曲ハ短調を残している。
よくブラームスは交響曲作曲に二十年余りをかけて、といった説明がなされているのだが、その年数もさることながら、第一楽章のリズムパターンに気づくと、明らかにベートーヴェン、ハ短調交響曲のモチーフに影響されていて、その作品67の後に続けて発表したものなのであろう。ブラームスは、その偉大さを自覚した後、リスペクトの表明として作曲したものなのである。それらには、標題が無く絶対音楽、ところが、≪田園≫にはプログラムが与えられていて、ある評論家など、絶対音楽より格下と評価していて、そのように鑑賞しているらしい。
盤友人は違う。その標題プログラムによる音楽などではなくて、具象として、作曲者が耳にしていた旋律の作曲表現なのである。すなわち、B氏は聴覚障害として耳が聞こえない作曲家というレッテルを貼られていて、それに対するプロテストなのである。彼の自覚は1798年27歳の頃から始まっていて、会話の不成立からによる。彼には会話帳が多数残されていて、記録として確かであろう。その十年余り後の作品として、運命交響曲と並行して作曲が進められた。
第五番が作品の67、チャイコフスキーはピアノ協奏曲第一番を作品23で発表している。ただそれだけなのだけれども、興味深いものがある。
田園交響曲の第二楽章は、小川の情景。小川の流れ、ウィーン郊外のハイリゲンシュタットの森に流れるせせらぎを表現していて、小川というのをドイツ語でいうとバッハ、意味深である。彼は、ヨハン・セヴァスティアン・バッハの音楽を評して、大海のごとくであるといったのは、正解である。彼の感覚センスを伝えるエピソードとして価値あり。郭公や小夜啼き鳥ナイチンゲールが囀ることになる。第三楽章は、田舎の村人による踊りの様子、ファゴットが、同じ節回しでいて愉快さが強調される。ホルンによる演奏にはスリルがあり、演奏者泣かせ。第四楽章、雷鳴と嵐、ここではティンパニーが活躍する。使用されるティンパニーはCとFの二つ。ドとファの音程を持つ打楽器で、トスカニーニーなどはその数に不足感をもって、さらにロール奏法を追加して、雷鳴を増やしている。B氏は、ヘ長調の範囲以内で、隙間はある。和声の問題で、トスカニーニの感覚は単なる野暮だ。第五楽章が接続されていて、羊飼いの歌、嵐の後の歓びと感謝、まさにB氏の大自然への讃歌で、聴衆へのアピールとして効果的という音楽になっている。1975年頃の録音として、ラファエル・クーベリック指揮、パリ管弦楽団による名録音がある。ドイツではなく、フランスの管弦楽団による演奏、色彩的で、歌謡性抜群、これ以上の演奏は無いといえる。パリ音楽院管弦楽団が1966年当時の文化政策により組織改編されて1967年にシャルル・ミュンシュ指揮で披露演奏会実現している。ベートーヴェン演奏のレコード記録としてカール・シューリヒト指揮があり、由緒あるオーケストラ。
左右両袖に展開されたヴァイオリン演奏は、それ以上の効果を発揮していて、クーベリックの面目躍如として評価されるべきレコードである。