千曲万来余話その452~「フォーレ、レクイエム鎮魂曲J・フルネ指揮1953年録音」
先日、札幌の交響楽団9月定期公演で大変驚いたことがあった。ヴァイオリンの第一と第二が4プルトずつステージ中央にまとまり、いつもの第一Vnの位置にアルト、そして対面の舞台上手にはチェロが配置されていたのである。悪い予感はてき面に当たって、中低域の音楽は広がり感が充分なのだけれども、サンクトゥスなどでVnが加わってから音楽のつまらなさはピークに達していた。すなわち、指揮者の感覚としてアルトとチェロを多用した音楽だからそのようにセッティングしたのだろうけれども、結果、ヴァイオリン・ダブルウイング両翼配置という王道の採用をネグレクトしたことによるリスクは、否定しようがない。つまり、指揮者があえて避けている意図からヴァイオリンの音響が効果を発揮できず、ステージ中央で展開されるべき中低域の音楽が拡散されたからである。一番否定されるべきは、チェロの演奏があのように配置されることにより音響の方向が正面を向かないことである。Vn両翼配置だと舞台下手にコントラバスが配置されてチェロは中央に向かうことにより、音楽の安定感は自然になる。ホールがステージを取り囲むワインヤードの形式により、ダブルウイングが破壊されることは、作曲者のそれに異ならないことなのである。
コーラスは中央に男声がまとまり、左側にソプラノ、右側にアルトが配置されて、その旋律線がいつもより明瞭だったのは、喜ばしい選択だったといえる。テノールはアルトの隣で、ソプラノ側にバスが配置されていたことにより、外声部と内声部が整理されていたのは、効果的であったといえる。だから、オーケストラの弦楽部も、ヴァイオリンが女声の配置と同様であるのだろう。指揮者の配慮は、ミスチョイスと言わざるを得なかった。
ジャン・フルネ1913.4/14ルーアン生まれ~2008.11/3、パリ音楽院でゴーベールとモイーズにフルートを学んでいる。1953年6月録音、ラムルー管弦楽団、エリザベト・ブラッスール合唱団、ピエレッテ・アラリーのソプラノ、カミーユ・モラーヌのバリトンという独唱陣、モーリス・デュルフレのオルガンでガブリエル・フォーレの鎮魂曲レクイエム作品48を聴いた。モノーラル録音だから、楽器配置の問題は何もない。ただ、女声が左右のスピーカーから聞こえるのは安定感があるし、ヴァイオリンも同様である。音楽面で云うと、合唱のレクイエム・エテルナムという発音は、グレゴリオ聖歌にさかのぼる伝統が感じられる演奏になっている。日本人合唱団だと、キレイだけれども、それだけで心に迫るものが無いのとは、大きな開きがある。言葉に力がこもっている。祈りがストレートに聴く者に迫るのである。
バリトン独唱のカミーユ・モラーヌは、エヌの発音に気を遣うのが伝わってきて、シャンソンの伝統を感じさせるものがある。言葉はラテン語でも、その配慮はフランス語的と云える。天下一品のソロで、ソプラノのアラリーも、格調高く、骨格のしっかりした仕上がりになっている。ピエ・イエズああイエスよ、という音楽、彼女の歌唱も貴重であり、孤高のレヴェルに達している。どちらかと言うと情緒的になる傾向の音楽なのだけれど、アラリーはそこのところが高みに達していて高潔である。そういうソリスト達を支えているのが、オルガンのモーリス・デュルフレ。ストップによる音色の選択も的確で豊かな低音域など、理想的な演奏である。なんといっても当時四十歳であった指揮者ジャン・フルネの指揮ぶり、音楽は悠然としたテンポ感で支えて、立派な音楽である。どちらかというと、力感に溢れていて一時代前という批判は予想されるのだけれど、あるべき姿の理想的演奏だといえる・・・