千曲万来余話その439~「リスト前奏曲、両翼配置は演奏する高度なテンションの前提である・・・」

 それを誤解しているようだが、聴こえ方の一つだけとか、復古主義とかのネガティブなキーワードではなくて、オーケストラ音楽の本質的なあり方を云う。
 よく人は、管弦楽というものでも音は聞こえるとそれで良いと考えているのだが、大きな誤りというものだ。すなわち、舞台の楽器配置はその指揮者の音楽観の表現であり、慣れというものは、保守主義の陥り易いつまずきの石である。それを乗り越えることは、音楽家としての飛躍をもたらす世界であるのだ。
 ポール・パレー1886.5/24~1979.10/10はゴール人として誇り高い、職人指揮者の典型。フランス音楽、ドイツ音楽、あらゆる管弦楽に精通していて、演奏家集団から熱い音楽を引き出す名人である。第二次大戦時にもレジスタンスとして、占領下のパリからモンテカルロに逃れて有力なリーダーとして活躍していたという。1969年六月録音、リスト作曲交響詩レ・プレリュード前奏曲、人生は死へ至る前奏曲でなくて何であろうというフランスの詩人ラマルティーヌの一節をもとにした音楽。
 オーケストラはモンテカルロ歌劇場管弦楽団、弦楽器の光輝な音色、軽快な木管楽器、小気味よいトランペット、伸びやかなホルン、燦然と輝くブラスアンサンブル、ティンパニーなど打楽器たちの活躍・・・ここに記録された音楽は、気宇壮大なロマン派音楽の精髄であり、勝利したパレー芸術の貴重な記録と云える。その仕掛けとして、ヴァイオリン両翼配置がある。弦楽器の配置であるヴァイオリン・ダブルウイングは、単に、楽器配置を超えて、指揮者の力量が発揮される最高レヴェル音楽の姿である。第一のポイントは、コントラバスが、舞台下手、中央に配置されるから、指揮者の左手側に低音域音楽が展開することになる。これは徹底的に、ステレオ録音の主流としての左右が高音、低音の対比という音楽観の否定である。ヴァイオリンは第一と第二の対比こそ舞台上での対話成立する必要条件といえる。二つ目のポイントとして、第一 Vnの隣にチェロ、アルトという配置、すなわち、ハーモニー和音の外声部という感覚の獲得、指揮者右手側にアルト・第二Vnという内声部の配置こそ弦楽器配置の理想的前提条件なのである。高い低いという設定は素人によく分かる感覚なのだが、その程度のシロモノだ。ここでポール・パレーが披露する音楽は、最高のパーフォーマンスなのである。弦楽器の演奏する音楽の上に、管楽器、打楽器の高度なテクニックが発揮されたオーケストラ音楽で、弦楽器配置は、全体に与える影響は大きいものがある。
 さようならば、なぜ、パレーは全て、その様に配置した音楽ではなかったのか?それは、時代、というものなのである。彼が活躍した時代は、両翼配置を否定した時代のものであって、69年当時、クレンペラー、モントゥー、クーベリックたちの録音に聴くことが出来た世界に対して、パレーも採用した楽器配置という図式なのだろう。主流派ではなかった時代の録音というのは、そうなのであって、理想的演奏の記録という価値があるといえる。そこに繰り広げられるリストの音楽は、熱気をもって演奏されたものであり、この音楽に出会える喜びは、極上である。
 フランス・コンサートホールLPというマイナーレーベルのものでも、貴重な価値があり、大量に存在するCDコンパクトディスクに太刀打ちできないのではあるけれど、レコードコレクターとして、この出会いこそ人生の醍醐味で、収集家冥利に尽きる。情報そのもの、だけではない鑑賞するための音楽記録としてのLPレコード、目的のための、手段としてのレコードは再生音楽の理想形であろう。パレー芸術万歳!