千曲万来余話その437~「シューベルト、交響曲ハ長調グレート、ボールト卿の名録音」
クラシック音楽を、日本では教養の一部として受容していた側面から、トップダウンで歴史が進行していたようだ。すなわち、シューベルト交響曲第九番グレートを現在、第八番にすげかえようとしているのだ。どういうことかというと、従来、第七番が欠番だったという理由から9(7)という扱いをされていたのだが、それは、九曲のB氏と同格、すなわちハ長調交響曲グレートを第九番としていたムリを第七番ともしていて、第八番、未完成交響曲を第七番に変更するという時流の変化である。そもそも、未完成で完成していた第八番を第七にするというのは、荒業だ。盤友人は、未完成交響曲を第七とするのには、違和感を覚えるし、混乱の元凶でありグレートを第八番と言うのは、それ以上に抵抗感がある。なぜなら、グレートというニックネイム、第九という認識は、自然、だから未完成を第七とする不自然は大変な愚行、という感覚こそ自然である。
エードリアン・ボールト卿1889.4/8~1983.2/22は23歳でライプツィヒ留学、ニキッシュの薫陶を受けている。日本のLPレコード全盛時代、ドイツ・オーストリア指揮者優位からして、凡庸な扱いに終始していて、ホルスト、エルガー、ヴォーン・ウイリアムズなどの英国音楽では本領を発揮していた。ところが、輸入盤LPレコードを収集していると、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスのレコードは、どれも、素晴らしいのである。なぜ、日本では脇役扱いだったのか?
理由は簡単、彼は、ヴァイオリン両翼配置型採用の音楽だからである。クレンペラーひとりだけという図式が構築されたとき、ボールト卿は除外されたと盤友人は見立てている。ひどい話だ。これが、レコード業界の元凶、評論家の間では、誰一人、その事実を指摘していない。
オーディオとは何か?グレードアップとは何であり、何のためのものか?という哲学が構築されていないとき、日本の業界は壁に突き当たり、現実の音楽界は激変して先祖返りの時代、というのが歴史の推移であろう。コンパクト・ディスクCDというものの正体は、記録媒体、情報、であり、鑑賞する魅力とは別物であるという事実、それを認識するのに、盤友人は30年の時間を経過している。事実、レコード業界は、評論家総出で、LPレコードを駆逐して新時代到来を謳歌していた、過去形で表記するのには訳があり、現実、LPレコードを生産する時代が到来したからである。
考えてみると、CDプレーヤーで情報再生していることより、LPレコード再生による魅力に負けるのが現実だから、それを否定する愛好家は多数であっても、少数の実感派たちこそ、これから成長するのが実態といえる。
シューベルト作曲したグレートは、好適な作品、何にとってかというとヴァイオリン両翼配置である。第一楽章で左右のスピーカーから、十六分音符音型の対話が再生されたとき、その喜びは、指揮者を通して作曲者S氏の世界へと飛翔する。ビショップ氏?録音とされる世界は、ステレオ録音の極みであり、中心軸が指揮台にあり左右感が確立された音楽こそ、左側で第一と第二ヴァイオリンが鳴る不自然をそのように実感させる。すなわち、中心軸が左右に存在するのは、不自然なのだという感覚の獲得こそは、オーディオの醍醐味なのだ。現実の保守派は、第一と第二ヴァイオリン束ねる世界である。有力な指揮者たちは、すべて、ダブルウイングの世界へと飛翔する、後戻りは、まったくないのが現実。
ボールト卿のレコード達と出会うことは、レコードコレクターにとって、彼岸から此岸への架け橋となるのではあるまいか?そう思うこの頃で、英国楽壇魅力いっぱいということだ。