千曲万来余話その436~「M氏トルコ行進曲、I・ヘブラー女史名演と、オーディオ現代論」
1778年モーツァルト作曲ピアノソナタイ長調、K331という作品には第三楽章トルコ行進曲付きのニックネイムがある。
M氏ウィーン時代、ピアノや作曲の個人教授もこなし、ピアニストとしても大の売れっ子だったという。以前はパリ時代ともいわれていたのが、今では、このウィーン時代の作曲になるとのこと。名作としてピアノと管楽器のための五重奏曲K452、ハ短調ソナタK457などが次々と作曲されている。トルコ行進曲とは当時のウィーンに居たトルコ軍隊の行進風景で耳にした音楽らしい。
イングリット・ヘブラー女史1926ウィーン~、1963年フィリップス録音を聴くといかにも、三部形式中間部トルコ行進曲がゆったりとしていて、正統派の演奏に仕上がっている。
六月の札幌キタラホール、ロシアナショナル管弦楽団がチャイコフスキーのピアノ協奏曲を取り上げた時、ソリストはアンコールに、トルコ行進曲を取り上げた。その演奏は軽快で、運指がよくまわり、テンポアップされた演奏だった。MN氏は、休憩時、もうやめたやめたこういう演奏を聞くに堪えないと興奮気味に話していた。すなわち、フォームが小振りで、軍隊が素通りしていくような音楽は、正統的とはほど遠かったから、客席からは温かい反応だったにもかかわらず、である。盤友人としては、何もロシア人たちの前でトルコの音楽を演奏することはない感覚で違和感を覚え、それもM氏を敬愛したチャイコフスキーとはいえミスマッチ、選曲間違いに違いないと感じていたのである。だいたい、当日のオーケストラ編成はコントラバス七丁であったところを協奏曲の時は四丁に刈り込まれていて、弦楽器は少なくなっている。ソリストによる軽量級チャイコフスキーに疑問を感じていた。今時人気若手奏者による、トルコ行進曲、指はよく回るけれど形式としてのトルコ行進曲とは、小振りであったように思われた。
ディジタル録音導入期の謳い文句に、静謐の究極的録音形式、無ノイズの世界とあった。ところが以前の愛好家にとって、二十キロヘルツ以上カットという録音方式は、感覚として、アナログ録音になじんでいた耳には受け入れがたい、オーディオとして別物であった。すなわち、ディジタルの完全録音方式は、弱点として、高音域カットの世界なのである。
思えば、LPレコードの欠点として指摘されていた問題、再生時間の開始と、レコード内周におけるビックアップ性能として、線速度低下問題がそれである。
明らかに、レコードディスクの外周部分の円周と内周部分では三分の一ほどの違いを抱えている。オーディオの性能が向上するほど、その差異は顕著になり、聴感上、外周情報と内周での感覚とでは、事実、情報ロスでスピーカーの鳴りっぷりは低下を感じさせる。これはどういうことかというと、オーディオを経験する時、始めの頃は音楽に集中していて、その差に気が付かないのは普通で、理論的な感覚で、外周と内周の聴感を指摘されると気が付くというシロモノ。気をつけると・・・という世界の話である。だから、コンパクト・ディスクの情報ロスとは、異なる世界の話で、CDでは、外周と内周とという指摘ではなく、始めから音の世界として、弱点を帯びた問題である。ディジタルとアナログの弱点問題としては、土俵は違うと言えよう。
現実の音響と音楽の問題、演奏の実態、録音された音楽とコンサートで演奏されるものとの比較問題、それぞれに三者三様と云える。生の音響に問題は無いのだけれど、音楽には派生する問題がある。演奏者の音楽性、教養、伝統、・・・ヘブラー女史のトルコ行進曲を聴くと、豊かな気持ちになれるというオーディオの醍醐味は極上の料理に似たり・・・だろう。