千曲万来余話その432~「武満 徹、冬ウィンター1971、オーケストラ音楽の醍醐味」

 店でトマトを探しているとき、¥258と¥358という4個1パックのものに出会った。フムフム100円の違いは何なのかなあ?という疑問を感じたのである。高いものを買い不思議に納得した。味が普通のものより濃い味のように感じた。もりもりトマトというポップ文句で、ミネラルの強い味わいに満足である。
  管弦楽音楽というと、弦楽器には、ヴァイオリン、アルト=ヴィオラ、チェロ、コントラバス、木管では、オーボエ、フルート、クラリネット、ファゴット、ほかにもバスクラリネットとかある。金管は、ホルン、トランペット、トロンボーン、テューバなどなど、その上で、打楽器として、ティンパニー、小太鼓スネアドラム、大太鼓バスドラム、テューブラ・ベル、シンバル、トライアングル、タムタム、マリンバ・・・ハープも加わる。1770年から1970年へと200年間にその編成は、管楽器、打楽器と幅をひろげている。ハイドンの時代から武満の作曲する管弦楽は、カレードスコープ万華鏡のように展開したといえる。
 武満 徹の作品を、一人の評論家が音楽以前、と烙印を押して酷評、その評論家は、リズム・メロディー・ハーモニーという3要素の判断からそのような発信と考えたのは簡単である。ところが、ストラヴィンスキーやバルトーク、メスィアン、シュトックハウゼン、ノーノ、ケージというコンテンポラリー同時代音楽を経験すると、かの評論家の誤謬はもはや、歴然としている。ピッチ音高、タイム時間、カラー音色という3要素から音楽をとらえると、その地平は広がりを持つというもので、ヨーロッパ古典派音楽の時代性からの飛躍、現代音楽は決して不必要な音楽と言えないのである。感性の世界、音と音楽という永遠のコンビネーションから、その愉悦は、無限だろう。
 札幌冬季オリンピック1972年記念演奏会委嘱作品、若杉 弘指揮、読売日本交響楽団パリ初演、6分54秒ほどの演奏時間ということは410秒余りのオーケストラ作品。まさに感覚美の世界であり、初演を聴いたメスィアンは、楽屋に作曲者を訪ねて、あれはトランペットか?と聞き彼はノンと答え、その工夫を伝えたというエピソードがある。正に師弟関係を物語り、フランスから現代日本音楽へと接ぎ木が完成した一瞬を伝えた貴重な証言であろう。
 音楽は、風を切る一瞬から開始されて、冬、もの想う作曲者が耳にする音を、作曲して、弦楽器から、金管楽器から、木管楽器から、そして打楽器へとステージに繰り広げられた管弦打楽器のすべての音色が、指揮者のタクトの基に、秩序をもって展開する。
 作曲者から与えられる予備情報は、冬1971、というタイトルだけ。作曲家が宇宙の感覚でもって音響に秩序を与え、そのうえで、魂の飛翔をイメージさせる。厳しい、感覚の世界で、地上というよりは天上の感覚に近い。
 冬のイメージ、あえて付け足すとしたら、1970.11/25を経験してからの初めて迎える冬、あの管弦楽のお仕舞いは、浮揚する魂への浄化、祈りにほかならない。あれは、世情を騒乱させるに充分すぎる事件であって、情報の錯綜から不必要な感情を排除して本質のみ対峙して作曲の机に向かうと、結果、ウィンター1971オーケストラ音楽が生まれ出たといえるのだろう。
 音楽は時間の芸術、文学ではないから、物語は、似合わないのだが、なぞることは可能であり、その昔、ラジオ番組で、聴いた音楽を言葉で反芻するという少し微笑ましいものがあった。理屈はさておいて、再生した音楽をスピーカーで鑑賞するというオーディオの醍醐味は、意外にも、武満 徹やここでの東京都交響楽団を指揮した岩城宏之の世界に立ち会えることが出来るという醍醐味だから、御霊の世界を体験する儀式、通過儀礼なのであろうか?