千曲万来余話その425~「ドビュッスィ、超人ミケランジェリが弾くー沈める寺」
印象主義といわれるフランス人作曲家ドビュッスィ1862~1918、前奏曲集第一巻、第十曲沈める寺は1910年頃に作曲されている。前奏曲集という先例はショパンに見られる作品集で、全12曲二巻から成立している。云うまでもなく12というのは、1オクターブ12種類の長調と短調という調性の数と一致する。それぞれにタイトルが付けられていて、沈める寺というのは、民話の海底深くにある寺院カテドラルというほどの曲。
ドビュスィには、2度目の妻エンマとの間に、娘クロード・エンマがいる。不倫関係から獲得した婚姻といわれるから、彼もやるな、といえる好漢であるがそんなのはどうでもよいこと、沈める寺こそ、オーディオの目的に適った名曲の一つである。
アルトゥーロ・ベネディッティ=ミケランジェリ1920.1/5ブレージア伊~1995.6/12ルガーノ瑞西、北イタリア、ミラノとヴェネツィアの中間ロンバルディア地方古都ブレージア生まれ、鼻下に髭を蓄えた風貌からして、1938年ジュネーブ国際コンクールでグランプリ獲得しその後ボローニャ音楽院教授就任、輩下にはポリーニ、アルヘリッチなどなど。
グランドピアノ、少し変な響きもする言葉だがピアノという楽器の名前はピアノフォルテ自由自在、だから大弱音というのは少し変という訳で、中国語では単に洋琴、鍵盤楽器クラフィーヤのことをいうのだ。
オーディオ的に名曲というのも少し変だけれど、この曲の再生で、倍音を知るのは有益である。五味康祐、ばいおんの分からぬ輩はオーディオと無縁であるとの至言を残しているが聴感上で、難しい音ではあるけれども、それはそれは感じられた歓びこそ、オーディオの醍醐味といえるというものだ。盤友人は、40年の長きを経過して獲得した境地、オーディオの神様に感謝すること、頻りにである。頗る満足、至極である。
キンコン、カキーンと倍音は響いてくる。指向性が強く、その方向性は左チャンネルと右チャンネルその中央に定位する。ピアニストはそれを耳にして打鍵しているのだから、それを再生して獲得した醍醐味は、自然ということなのだろう。多分そこのところ、ディジタル再生音と、分水嶺がある。そこをスルーしてコンパクトディスクは再生されているからである。アナログ録音こそそれは命、こだわりの源泉でもある。
何も、沈める寺、ばかりではなくハイドンのソナタでも、感じられる音とはいえるのではあるけれど、ドビュッスィはそこのところ、意識的に作曲しているということだ。聞かせるというものである。だから、再生する醍醐味といえる所以である。
ミケランジェリの音楽は、一時代前のスタイル、というのは最大の敬意をともなうものである。古臭い、ではあらず偉大な音楽への尊称こそ相応しい、現代の演奏者がなかなか越えられていない世界ではある。どういうことかというと、律動リズムの刻みは、一定という精神的重圧から、解放された世界なのだ。10指がすべてコントロールされていて、自由。打鍵の深さも、軽いタッチから底鳴りがする深さまで、変幻自在、それはあたかも、自分自身の超越を通して、作曲者への一体感獲得という境地、まさに、解脱である。スローなテンポ感のうちでも、色彩感の鮮やかさを誇り、その最低音は深々と安定感を表現している。
現代の演奏家諸姉諸兄、少しは真似をしろ、と言うことではなく、できないからではあらず、目指すべき、獲得する自由な境地である。メトロノームの一定感覚から出発して、呼吸する感覚、囚われずに、意識克服の境地である。フォーム目茶苦茶ではなく、空間意識の上の自由時間というべきものである。ミケランジェリはそこのところを、見事に記録している!