千曲万来余話その422~カール・シューリヒト、ツーウエイ流指揮者の典型
今、時代の最先端は、ツーウエイ二刀流である。打つし投げるし、というどちらも成し遂げられるのは至難のはずだが、どちらかではなくどちらもというのは、チームの中で彼一人の存在というから、抜群の能力を発揮するいわば、時代の寵児と云えるだろう。オーケストラの指揮者というと、彼は演奏しないでプレーヤー達に指示する存在なのであるが、自分も歌いプレーヤー達も歌うというのは、一方向だけの存在ではあらず、コミュニケイションというのは、相対する演奏家がお互いに協奏しなければ成立しないというのは、象徴的な図式、それを楽しむことが出来るのは、ある種、至難の業なのであろう。
盤友人は、教育系大学に籍を置いた一人であったのだが、教育もまたしかり、教えるというのは一方向の業、情報が流れるだけのことではなくて、逆方向に下から上へと拾い上げるボトムアップ型の育てる、エデュケイトというのは、能力を引き出すという作業のことを言う。すなわち、ツーウエイ、双方向というタイプこそ理想形のことであった。だから、よく見受けられる、人間関係にあって上からものをいう、上から目線の教育者は胡散臭いのであって、馬脚を現すのが関の山、良好な人間関係を築きあげる教授こそ、理想とするツーウエイの指導者であった。
教育者が引き出す能力の名人のことをいえば、指揮者も亦、然りで棒を台の上から振り回すのが役割ではなくて、歌わせる指揮者こそ名人なのである。あやまちすな、失敗は易き所にてしでかすという木のぼり名人の至言のごとく、安易に命令することが指揮者の存在ではないのだ。そこに、最高の音楽を実現する事こそ指揮者の役割で、複雑を単純に置換する名人こそ、指揮者の達人と云える。カール・シューリヒトの記録を再生して、つくづく、彼はその意味で達人、ツーウエイの指揮者なのであったのだと、合点が行く。ガッテンガッテン!モーツァルト演奏家をして、モーツァルティアンという称号を与えられるのだそうだが、シューリヒトはまさしくモーツァルティアンに相応しい指揮者と云える。ディスクを再生していると、彼が目くばせをしてプレーヤーたちが生き生きと歌うという姿が、目に浮かぶのである。それは、ちょうど、レナード・バーンスタインが成し遂げた境地に近いものがある。周りの音楽家がこぞって、称賛する故である。
シューリヒトの眼差しは、きっと、温かいものであったに違いない、そういう音楽である。キングインターナショナルが最近リリースしたLPレコード、モーツァルト作曲、ピアノ協奏曲第19番K459というヘ長調の名曲には、クララ・ハスキル、フェレンツ・フリッチャイ指揮した名盤がすでに存在するのだが、そこにカール・ゼーマン、カール・シューリヒト指揮する名演奏に出会うことが出来たといえる。オーケストラすべてのプレーヤーと交流して築き上げた、稀有な名演奏、記録であり、歌に満ち溢れたモーツァルト演奏である。管楽器弦楽器両方の演奏家が生き生きと歌を披露している。これは、滅多に出会うことのないディスクだ。LPレコード収集家冥利に尽きる経験となろう。
記録データによると、五月十九日1961年とある。感動を覚えたのは十九番19日ライヴ録音というだけにあらず、その年はハスキル・ロスの半年後のことであったという事実だ。ハスキル1895.1/7ブカレスト生まれ~1960.12/7ブラッセルで逝去した名女流ピアニスト、カール・シューリヒト1880.7/3ダンツィヒ生まれ~1967.1/7スイスのレマン湖畔コルソ・シュル・ヴヴェで亡くなった達人指揮者との間には、モーツァルト演奏という共通項、二人とも最高のモーツァルティアンといえる音楽家なのである。カール・ゼーマン氏は独奏で男性的でミケランジェロ、ダビデ像のような演奏を披露している。
モーツァルトの愉悦は、花咲く満開の野山に、包まれた・・・という音楽である。