千曲万来余話その399「夭折の天才音楽家、デイヴィッド・マンロウ」
大学生のころ、サークル活動で小学校、中学校音楽教室を企画して演奏旅行に出かけたことがある。ミニ音楽会で男声コーラスを披露する。我々二十人足らずのメンバーは、スターだった。演奏終了後は子供達と交流し、サインしたり、肩車したり、それは素敵な経験。その後しばらくして大学のサークル室に、水色した毛糸手編みの手袋が郵送されてきた。そういえば、曲目の中に母さんの歌が有った。母さんは夜なべをして手袋編んだだよ~という歌詞だった。女子中学生は、その当時細身だった盤友人宛に心込めた贈り物として届けてくれたのだった。昭和47年9月恩根内、音威子府からのもので、札幌駅立ち食い店でのお蕎麦は、オトイネップのものだということも知らされていた。おいしさが一際しみる思いで、当時のことは深く思い出として記憶されることとなった。
盤友人は34歳のころというと、持病がピークを成していて(死)の隣に居た。そんな同年齢でデイヴィッド・マンロウ英国人音楽家1942.8/12バーミンガム~1976.5/15チェザム・ボイズ、は死因不詳で早逝。多数のレコードが残されることとなった。パーセル、デュファイ、テレマン、サンマルティーニ、ヘンデル、モンテヴェルディ…中世、ルネッサンス、ゴシック、ネーデルランド、スペイン、古楽器を演奏し八面六臂の活躍、そして突然の死。人は縁があって人生行路をあゆむのだが、その人の経験は、その生死に影響があるのだろう。
マンロウは、早くからピアノ、声楽、ファゴットを学び、同時に独学でリコーダーをマスターしていて、18歳、海外青年協力隊員として南米に渡り民俗音楽に接した。一年で帰国する際、多数のレコードや楽器などを持ち帰った。古楽研究の権威サーストン・ダートの研究室にてクルムホルンという楽器に出会い、彼の人生は決定づけられることとなる。ケンブリッジ大学、バーミンガム大学に籍をおいて中世・ルネッサンス音楽と楽器の研究を続け、全ての木管楽器を演奏するという才能を発揮する一方、シェークスピア劇の音楽に次々と新鮮な響きを取り入れていったという。その頃、伴侶としてギリアン・リード打楽器奏者などと各地でレクチャーやコンサート活動を展開、超人的演奏、記録を残している。レコードもEMIのみならず、ハルモニア・ムンディで、アルフレッド・デラーコンソートと共演を果たしている。このLPを再生すると、マンロウのリコーダー演奏が秀抜である。ヴォーカルアンサンブルと伴奏する器楽演奏の中で、彼のピッチは正確極まりなく、聴く人の耳を捉えて離さない。特別大きな音量を誇るわけではない。リコーダーの前にマイクロフォンが近接しているわけでもなく、すなわち、他の楽器とのヴァランスの上で、きっちり、演奏を披露しているのである。これは、彼の非凡な才能のなせる業で、抜群の存在である。心に届く音楽とは、何か?
彼の演奏に接すると、その答えが用意されているように聞こえる。
リコーダーという楽器は、発音が容易である、ということは、そこから表現される世界は、大きな世界であることを知ることが容易ならざるものなのであるといえる。 彼の膨大な世界を、膨大な世界、それだけ受容することが不可能なように・・・彼の音楽、LP一枚だけでは、目をつむり片手、手のひらで象を感じ語るが如き、語るに果てしがない。オーディオライフの一瞬を語っても、詮無き事、ただ言えることは、人生そのものであるということ、音楽をしているとまた会える、という不思議なフレーズをサイト観察者の皆様と共有したい。
マンロウは既に黄泉の国の人であっても、スピーカーの、そこのところで演奏しているんだがなあ・・・