千曲万来余話その395「ベートーヴェン第九の話、フルトヴェングラーか、カラヤンか?」
どちらが、原典版に近い楽譜を採用しているだろうか?それは、カラヤンの方が、改変を採用していないという指摘をみな様はいかに思われるか、興味がある。
ベートーヴェンの交響曲第九番ニ短調作品125合唱コラールシンフォニー、1824年5月7日ウィーン・ケルントナートゥーア劇場にて作曲者自身指揮で初演。作曲者五十三歳ころの作曲になり、聴覚障害を乗り越えてのもので、彼が当時使用していた耳あての筒は、今も現存されている。
例えば、田園などを聴くと分かることなのだが、障害を自覚する以前、耳にしていた鳥の鳴き声などは楽譜に表現されているのだから、音楽の上で、貴重な証言といえるであろう。つまり、彼の頭の中では、音楽は満ちているということなのであってこれは、交響曲が標題を有することによる下等評価とは無縁ということである。
第四楽章フィナーレでは第一から第三楽章までの主題を、すべて否定した後、新しい旋律を歌い出す。この旋律を後世、ブラームスは第一交響曲で模倣したとか、そういう類の非難は笑止千万である。だいいち、あの歓喜の旋律メロディーですら、既にモーツァルトのカノンの旋律にあらわれている。類似性は、模倣とは無縁の話である。なぜならそれは、B氏の音楽スケッチを調べると理解できるように、彼がその生成を記録しているからである。
フィナーレ冒頭の音楽で、木管楽器の旋律とトランペットのものは、楽譜において、F氏とK氏では違いがあるように、異なっている。すなわち同じメロディーを吹奏するのは、ワーグナーによって改変されたといわれる、フルトヴェングラー採用楽譜である。和音の強調のように演奏する原典版は、カラヤンが採用している方の楽譜なのである。
この事実は、両者の拠って立つ時代の相違から来るものではあるまいか?F氏は演奏様式のロマン派時代の象徴であり、K氏の解釈は、古典回帰の宣言であろう。それは、第二楽章、ターリタッタ・タッタタッタ、という中間部で、木管楽器に斉奏ユニゾンでホルンが吹奏させるのもF氏で、K氏は木管楽器だけである。
両者比較するうえで、オーケストラは、フィルハーモニア・オーケストラ・オブ・ロンドン
1954年8月22日ルツェルン実況録音を残したのはフルトヴェングラーで、一方カラヤンのは、1953年11月13日1955年5月20日キングズウエイホール、ロンドン、7月24-30日ムジークフェラインザール、ウィーン録音となっている。
独唱者たちは、ソプラノ、エリザベート・シュワルツコップ、テノール、エルンスト・ヘフリガー、バスは、オットー・エーデルマン。アルトは、エルザ・カヴェルティF氏指揮、マルガ・ヘフゲンはK氏の指揮である。
両者に共通しているのは、フォーr・ゴーッdという合唱部分がフェルマータでクレッシェンドをかけるところでティンパニーはディミュニエンド、次第に弱くしている。多分、B氏はティンパニーもクレッシェンドをかけて、盛大に、クライマックスを築こうとしたところではあるまいか?拍手が来ることを逆に仕組んだのではないかと盤友人は想像している。シェークスピア劇、テンペスト嵐では、終末に主人公プロスペロウが聴衆にアピールする故事があるから・・・拍手が来て、セリフが続きそして大団円のエピソードとなる。
今年最後の余話となった。サイト観察者の諸姉諸兄におかれては実り多き一年のこととお喜びする。平成三十年が、より一層の佳き年となることを祈念して、アロハ、マハロ・・・